嘘に恋するシンデレラ

 思わず短い悲鳴を上げる。
 目と鼻の先に彼の顔が迫って、髪が頬を掠めた。

「俺のことばかにしてんの?」

 温度の低い静かな怒りを宿したような、投げやりな言い方だった。

「い、たい……!」

 ぎりぎりと彼が手の力を強めると、髪が引っ張られて激痛が走る。

「余計なこと考えてんじゃねぇよ。おまえはただ黙って俺に従っとけ」

 肩を押さえつけていた手が今度は首元を捉えた。
 ものすごい力だ。息が詰まって声も出せない。

「なあ、何か間違ってる?」

 顔を歪めたまま、どうにか首を横に振る。
 つ、とその拍子(ひょうし)に涙がこぼれ落ちた。
 彼の力が少しだけ弱まる。

「……けほっ、……ごめん。ごめんね」

 ぼやけた視界に映る彼を見つめた。

「ごめんなさい」

 これが、この言葉だけが、わたしに取れる唯一の自衛(じえい)手段。
 彼を正気に戻す魔法の言葉。

 ひたすら謝って耐え抜くんだ。
 身を縮めて、嵐が過ぎ去るのを待つ。

 それ以外にできることなんてない。

「生意気なんだよ。あいつにたらし込まれたか何だか知らねぇけど、俺を出し抜こうとか!」

 ぐい、と髪を引っ張られ、床に引き倒される。
 したたかに打ちつけた痛みが襲ってくるけれど、状況には飲み込まれずに済んだ。

 容易には聞き流せない彼の言葉が、わたしの理性を繋ぎ止めてくれたお陰で。

(気づかれてた……)

 わたしのついた嘘に。
 じゃあ再び記憶をなくしたと言ったときのあの反応は、すべて演技だったのだろうか。

「満足か? 俺を騙せて」

 伏せて倒れ込むわたしの視界は髪に覆われていたけれど、ふっと風が起きて彼が屈んだのだと分かった。

 それと同時に、演技ではなかったのだと悟る。
 少なくともあの嘘をついた段階では、彼は本気でそう信じていた。

「うぅ……っ」

 ふいに横腹を蹴られ、小さく(うめ)く。
 身体が横向きになる。勢い余って後頭部や背中を壁にぶつけた。

 一度立ち上がっていた彼が、じわじわと追い詰めるように歩み寄り、再び傍らに屈み込んだ。
 顎をすくって掴み、無理やり目線を合わせてくる。
< 70 / 83 >

この作品をシェア

pagetop