30歳の誕生日にいつも通っているお弁当屋さんの店員さんとワンナイトしてしまったので2万円置いて逃げてきた

4. 再会

常連で通っていた店舗の店員の親切心を勘違いして、夜中に酔っ払って連絡し、ホテルに誘ってなし崩し的に一夜を共にする。大人としてあまりに恥ずかしくて、綾羽は翌日から優一のいる店に通うことができず、コンビニのおにぎり生活に戻っていた。

綾羽が優一に恋をしたならまだ良かった。しかし綾羽が優一に抱いている気持ちは、あの笑顔を見ていると癒されるなあ、くらいのものだし、優一に電話したのも、綾羽に対して後から何か面倒なことを求めてこなさそうという印象があったから。
つまり、ただの都合のいい男である。

こんなことをしても優一が怒っている姿は想像できない。社用携帯には、あの日の朝、それから夜、次の日の14時過ぎに電話があったがそれから連絡はない。

優一の方も綾羽に特別な感情を抱いているわけではなさそうだったので、この縁はこれきりだ。
これから30代、自暴自棄になって失敗する相手としては優一は優しく親切で、てひどい失敗にならない。昼食の選択肢が一つ減っただけ。その点は人を見る目があって良かった、と思った。

「はぁ」

綾羽は1時間ほど残業してから退勤して、地下1階に降りた。
オフィスビルは地下鉄直結で、オフィスからそのまま地下鉄に行こうとすると優一の働いている店舗の前を通るが、店舗はランチ営業しかしていないので気にする必要はない。
最初はそれでもなんとなく前を通るのが気まずく、外の階段を使って店の前を通らないように地下鉄に降りていた。そろそろその遠回りも面倒になってきた。

ヒールの音を響かせながら地下の道を通っていく。いつもはシャッターが降りている店舗の入り口の右側半分が、シャッターが開いてガラスが見えており、店内も間接照明が灯っていた。

不思議に思って通りすがりに中をチラ見すると、一つしかないイートインスペースに座っている男の姿が目に入った。優一だ。ノートパソコンを広げて何やら作業していて、綾羽には気付かない。

綾羽は見つかる前に退散しようと思って、足早にそこを後にすると、後ろから悲鳴が聞こえてきた。

「うわっ!」

続いて、ガシャン、と硬いものが落ちる音。

悲鳴の主が優一だと分かって、綾羽は足を止めた。
突然呼び出してワンナイト相手に誘った上、お金だけ残して着信は無視。もしかしたら優一がここにいるのは綾羽が理由なのではないかと思うと申し訳なくて、綾羽は優一に声をかけることにした。

ゆっくり振り返ると、店舗から優一が出てきたところだった。綾羽と目が合うと、目を見開いて、慌てた様子で走ってくる。

「西野さん!……あのっ」
「ハセさん、えっと、すみません、ここオフィスがあるビルなので、外でお話してもいいですか?」

ちょうど退勤する人の多い時間で、社内の誰に遭遇するか分からない。この提案すら保身のためだが、優一は頷いてくれた。

優一の荷物を回収するために弁当屋の店舗に戻ると床にはコーヒーが溢れていた。早く拭かないと床にシミが残ってしまう可能性がある。

「モップとか雑巾とかあります?」
「はい、あります。お待たせしてしまってすみません」

優一がモップを濡らして床を掃除するのを見つつ、綾羽はテーブルの上にもコーヒーが溢れているのを見つけてカバンから除菌シートを取り出した。

「わ、すみません!ありがとうございます」
「いいえ」

軽くテーブルを拭いて、モップや荷物を片付け、隣を歩いて階段を上る。交差点を渡って少し歩いたところにあるベンチに腰掛けた。

「申し訳ありませんでした」

並んで座ると、二人で同時に頭を下げた。

「え?なんでハセさんが謝るんですか。私が無理に誘ったのに。気まずくてちゃんと謝罪もしなくて、お金だけ置いて済ませようとして本当にごめんなさい」
「いえ、僕の方こそ!あ、お金を返そうと思って用意してきました」

優一がカバンから封筒を取り出すのを、綾羽は手で制した。

「いらないです。迷惑料だと思って受け取ってください」
「迷惑じゃありません。電話をもらって嬉しかったです」

優一が真っ直ぐ綾羽を見つめてくるので、綾羽は驚いてしまった。中学生の時に初めてできて、3ヶ月でイメージと違うと言って綾羽のことを振った彼氏が似たような顔で綾羽を見つめてきたのを思い出した。

「あの、西野さん」
「はい」

優一が何か決心したような顔をしている。中学と、高校と、大学と、学生時代に綾羽に告白してきてくれた三人の彼氏はこんな顔をしていたなぁ、とぼんやり思い出す。

社会人になると、告白らしい告白はなくて、どちらからともなく、という感じで、手を繋いだり、キスをして、雰囲気で付き合い始めた。最初は前職の会社の先輩で、次は合コンで知り合った男。

綾羽が、自分のために好きでしているふんわりした服装や、可愛いネイルを褒めて、綾羽の中身もふわふわした砂糖菓子みたいな、お花畑みたいな頭を期待している人たち。
表面的な付き合いをして、にこにこ笑っていられるうちはいい。でも心の中をさらけ出して、綾羽が綾羽の意見を言うようになると、イメージと違う、と拒否される。

優一もそうだろうな、と綾羽は思っている。
ランチボックスを買うときは綾羽は明るく笑顔で振る舞っていたし、出勤日なのでいつも化粧をして、髪もネイルも気合を入れるために整えていた。
酔っ払って甘えてくる、基本的には明るくて可愛い雰囲気の遊べそうな女枠だ。誕生日とは言ったが歳の話はしていない。もしかしたら年齢も20代と勘違いされているかもしれない。

ちょっといいなと思った人と付き合い始めて、綾羽も本当に好きになり始めた頃に振られる。綾羽の恋愛遍歴はそんな感じなので、正直なところ恋をしたり付き合ったりすることに少し疲れている。
お昼を買っていただけの優一と付き合い始めて、すぐ振られたら、社内の人に今度はなんと言われるんだろう、と想像すると気が滅入りそうだ。せっかく転職して、社内恋愛からくる噂が消えたところなのに、また同じような陰口を聞くのかと思ったらうんざりした。

いつも比較的短期間で振られて終わるせいで、綾羽は周りの女性陣からは見た目だけ、なんて陰で言われる。見た目だって、あの子そんなに可愛いわけでもないのに、髪とか服装とか、せっかく男に媚びてるのに、残念、なんて言われているのも聞いたことがある。
それを「違う!」と面と向かって主張するほど綾羽は気が強くない。一時期は地味な服装にしたこともあったけれど、気分が上がらないし、他人の噂話を気にして買いたくもない服を買い揃えるのが嫌で、今では開き直って、綾羽は自分のために自分の好きな見た目にしている。

優一は、綾羽を見つめたまま口を開いたが閉じてしまった。

「ハセさん?」
「すみません、なんと言ったらいいか分からなくて」

優一がため息をついた。

「俺、西野さんに惚れてしまって、西野さんはそんなつもりじゃなかったんだろうなって思ったんですけど……あの1回で終わらせるのが、いやで。未練がましく待ち伏せしてすみません。ストーカーとかは絶対しないので安心してください。電話番号も消します」

優一はスマートフォンの画面を出して、綾羽に電話をかけた履歴を出した。左にスワイプして一つずつ履歴を消していき、最後の一つのところで指が止まった。綾羽の様子を伺うように、じっと顔を見つめる。

「西野さんって、誕生日を隣でお祝いしてくれる方がいないと言ってました、よね?今お付き合いしてる方はいない……?」
「ええ」
「俺は、どうしても選択肢に入り得ませんか」
「……」

優一は、夜中にいきなり電話しても、誕生日だと伝えたら、すぐに「おめでとう」と返してくれる。優一と付き合って、心がささくれだった時に会える人ができたら、きっと癒されるだろうなと思う。

でもまだ、好きという気持ちに確信もないし、綾羽は次に付き合うなら、結婚を考えられる人にしようと思っていた。優一は優しくて親切だ。顔や声が好みで、素敵な人だと思う。でもそれだけ。

それに綾羽は、優一と付き合うには自分は性格が悪すぎる、と思った。
多分優一には、もっと素敵な人がいる。優一に同じように優しさを返してくれるような女性が合う。

綾羽が何も答えずにいると、優一は慌てた様子で、先程の言葉を取り消すように手を左右に振った。

「すみません、未練がましくて!なんでもないです。ランチの時間、良かったらまたご来店してくださいね」

優一がにこっと笑った。

「ハセさんって、すぐ人に騙されそうですよね」
「え?!」
「いい人だし、私結構ひどいことしたと思いますけど、全然怒らないし」
「ひどいことなんてされてませんよ」
「夜中に急に呼び出して、ホテルに誘って、翌朝お金だけ置いて次の日から無視してるって、男女逆にしたら最低だと思いません?」
「……無視されたのはちょっと傷つきましたが、でも、俺がまた連絡をしたいって思えないような夜にしちゃったんだなと思って、仕方ないかと」

綾羽はその答えに驚いた。

「そんなことはないです」
「え?」
「よく覚えてないだけ。覚えてなくて、接客業でお客さんの私に親切にしてくれたハセさんの優しさに付け込んだのが気まずかっただけです」
「よく、覚えて、ない……」
「そうです。私がよくこんなことしてて、長谷さんに連絡したのが他の男の人にも電話をかけた後だったとしたら、どうします?私に惚れたって言ったの撤回します?」

なんでこんなことを言っているんだろう、と綾羽は馬鹿馬鹿しい気持ちになった。

優一だったら、綾羽がイメージと違っても、それさえ許してくれるんじゃないかというちょっとした期待を抱いている。それか、こんなに優しい人でも他の人と同じだと思って、その期待している気持ちも消してしまいたいような、よく分からない気分だ。

優一は、綾羽の言葉の意味を確かめるように綾羽を見つめた。

「俺に一番最初に電話をかけてもらえるように努力します。どうしてそんな試すようなことを言うんですか?可能性が残ってるのかなって期待しそうになりますけど……期待していい?」

ここまで言っても、優一は綾羽に幻滅していないらしい。まだ気持ちを残してくれていることに、じわじわ嬉しさが胸に湧き上がってきた。

綾羽の恋はいつも、相手に好かれてから。好かれていると思うと嬉しくなって、好きになってしまう。

綾羽は頭の中で、自分の給与について考えた。
この5月にチームリーダーへの昇格が決まって役職手当が付いている。少し昇給した。世帯主なので住宅手当ももらえるし、綾羽と優一は職場のビルが同じ。綾羽の住んでいるマンションは1LDKで、少し狭くなるが二人で暮らせないことはない。ベッドだけはシングルからせめてセミダブルに買い替えたいところ。

綾羽と同じ役職で家族を養っている人も社内にはいる。まだ将来は何も分からないが、優一との結婚の可能性はゼロじゃない、と結論付けた。

付き合ってみないと分からないけれど、優一は親切で優しくて、隣にいると安心する人だ。

優一が少しだけ距離をつめて、綾羽の手を握った。綾羽は軽く手を握り返して顔を上げた。

「私」
「はい」
「30歳で、一応結婚願望があって。結婚の可能性がゼロの人とはお付き合いしたくないんです。お互い、将来的にないなって思ったら、別れるでもいいですか?それなら付き合います」
「結婚……」

その気がなければ男性が引く言葉no.1と言っても過言ではない、30代独身女からの結婚をチラつかせる言葉。しかも付き合いすら始める前。
綾羽はまた優一を試すようなことを言ってしまったな、と後から思った。
ただ、自分の要望を伝えておくのは必要だし、綾羽には相手の機嫌を伺って、優一の理想通りに振る舞っている時間はない、と考えて撤回はしない。

「西野さん、俺の年収も年齢も、何も知らないですよね?俺は結婚相手としてアリなんですか?」
「ええ。ハセさん一人と、子ども一人くらいだったら、私の収入でいけるかなって計算してました。贅沢はできないけど、私の贅沢って、週2のあのランチボックスくらいだから、これから昇給していけばきっと大丈夫。年齢は、……いくつですか?20代後半?」

優一は驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。

「同い年です。俺が1月の早生まれだから、学年はギリギリ一つ上かな。西野さん、抱きしめてもいいですか?」

綾羽は周りを見渡した。帰宅途中の人たちはいるが、綾羽と優一がいる場所は人目にはつかない。

「どうぞ」

ぐいっと手を引かれて、抱きしめられる。強い腕の感触を、なんとなく身体は覚えているような気がして、綾羽は安心して優一の背中に手を伸ばした。

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