30歳の誕生日にいつも通っているお弁当屋さんの店員さんとワンナイトしてしまったので2万円置いて逃げてきた

3. 失敗

「おかしい。なんでこんなことになってるの……?」

本日、綾羽が30歳の誕生日を迎えた翌日である。
綾羽は、ベッドの上で頭を抱えていた。隣に眠っている男はよく見なくても優一である。綾羽も優一も下着だけ身につけた寒々しい格好をして、見知らぬ部屋のベッドの上にいた。

(ラブホ……?)

ただのビジネスホテルのように見える、味気ない一室だ。綾羽は念の為恐る恐るゴミ箱を覗いた。そこになければいいな、と思っていたゴミがしっかり入っているのを見つけて、盛大にため息をついた。

(嘘でしょ。30になってから人生初の酔い潰れワンナイト……っ!)

綾羽が真っ先におこなったのは、アフターピルを処方してくれる婦人科の検索と、本日平日のため上長への半休の申請。幸い社外との打ち合わせは午後のみだ。

ゴミ箱によると避妊はしているようだが、相手は名前と顔と、アルバイト先しか知らない男。楽観的になるには材料が足りない。何より、行為に至ってからの記憶がない。
綾羽から誘ったことだけは覚えている。

「私、最低。ばか、すみません、ハセさん。ほんとすみません」

綾羽はすやすや穏やかな顔で寝ている優一に謝罪した。

昨日の綾羽は、荒れていた。苦労して作成した資料をクライアントに褒められて、一年分の契約更新をしてもらったのに、それを新規営業部の同期に”顔で契約を取ってる”と陰口を言われているのを聞いた。
それでなくても、新規営業後の引き継ぎをするクライアントサクセス部門は、営業部門から陰でおこぼれで仕事していると言われて馬鹿にされがちだ。

そこに同期の悪意ある言葉が重なって、根も葉もない噂まで言われて、それを一緒に聞いていた綾羽の上司が否定してくれなかった。信頼していた上司だったのに、綾羽のことを庇わず、ただへらっと笑っていただけ。もうそれが許せなくて許せなくて、綾羽は久しぶりに一人で飲みに出かけることにした。

本日は綾羽の30歳の誕生日で、個人のチャットツールでは実家の母と兄から祝いのメッセージが入っていた。実家は今から帰って明日出勤できる距離ではない。

SNSには誕生日を登録しているから、何人かコメントをくれていた。
その中で今まで愚痴に付き合ってくれていた学生時代の友人たちは、子供がいてこんな時間に呼び出せないし、男友達は勘違いして触ってくるから呼びたくない。同僚は誰が綾羽をぶりっ子、顔契約と呼んでいるか分からない。上司はそれを注意してくれない。

連絡できそうな人が誰もいないスマホを眺めて、綾羽はため息を吐いた。それなりに友人もいるし、過去に彼氏もいたのに、30歳になった綾羽を隣で祝ってくれる人も、仕事の愚痴を聞いてくれる知り合いもいない。

母親に電話をかけようかと思ってやめた。最近は実家の犬が老いて世話が大変で、母親も疲れているのを思い出した。そんな時に綾羽の仕事の愚痴を聞かせるのは申し訳ない。

(もう一人でいいや!一人でも楽しく飲めるし)

一軒目は、職場の近くの安いイタリアンで夕食がてら白ワインをデキャンタで頼んだ。次に一駅移動して、ガヤガヤうるさい大衆居酒屋に入る。ビールをジョッキ2杯飲んだあたりで、綾羽より年若いサラリーマンの集団が入ってきて、彼らが社内の愚痴をこぼし始めた姿が噂話に興じる同期の姿と重なって、気分が悪くなって店を後にした。
まだ飲み足りない。ワインとビールジョッキ2杯は綾羽の顔をほんのり赤くしていたけれど、まだまだ酔っているという状態ではないし、終電もまだある。

華やかなネオン街を歩きながら、フラッとバーに立ち寄って、度数高めのカクテルを2杯。まだ帰りたくない。誰かそばにいて欲しい。
周りから表情がはっきり見えない程度の暗い空間でバーカウンターに座っていると、感傷的な気分になって泣きそうになる。

涙がぽろっと落ちる前に、綾羽のスマートフォンに通知が届いた。プライベートな方ではなくて、社用携帯である。
システムにバグが発生していることが分かり開発チームが対応していたようだ。
綾羽が担当しているクライアントも障害が発生した先だったので、明日の朝に問題は解決済みということだけ説明して欲しい、という内容の宛先でメンションされていたようだ。

こんな時間まで仕事をしていてお疲れ様、という気持ちと、解決済みだったら夜にメンションするな、という気持ちと、社用携帯の電源切っておけばよかった、という気持ちと。なんだかモヤモヤする気持ちが渦巻く中で、綾羽はこの携帯に一人、数日前に仕事に関係のない人からの着信があったことを思い出した。

その日綾羽は休憩の買い物の時に名刺入れを落とした。優一がそれを拾って、名刺に書いてあった社用携帯の番号に電話をくれて、すぐに取りに行くことができた。

(ハセさんの番号、残ってるはず……)

アルコールでぼんやりした頭で、綾羽は優一の笑顔を思い出した。癒されたい。利害関係のない、ただただ優しくて、綾羽に何も求めてこない男。

目的の番号を見つけて表示し、電話をかけてみる。5コールかけたところで、冷静になって切った。

(よく考えたら仕事中にかけてくれたんだから、店舗の電話でしょ)

あの地下一階のおしゃれな店舗で、暗がりの中携帯が鳴っているのを想像した。明日折り返しでかかってきたらなんと言って誤魔化そうかと考えながらカクテルをもう一杯頼み、口をつけていると、社用携帯が鳴った。

「えっ」

電話の主は連絡帳にない番号で、多分優一。綾羽は慌てて店の外に出て通話ボタンを押した。電話の主は優一だった。

『……もしもし、長谷です』
「ハセさん」
『西野さん?あの、地下一階のお弁当屋の長谷です。こんばんは。これ会社の携帯ですよね?すみません、間違えかなって思ったんですけど、念の為折り返しました』

優一の礼儀正しくて穏やかな声に癒されて、綾羽は気付いたら溢れかけていた涙が一粒だけぽろっと落ちた。

「ハセさん、私、今日、誕生日で」
『え?そうなんですか。おめでとうございます』

すぐに帰ってきた言葉に、綾羽の頬が緩んだ。

「ありがとうございます。誰も隣で祝ってくれなくて、寂しくなって電話しちゃいました。夜にごめんなさい。今、お祝いの言葉をいただけて嬉しかったです。切りますね、おやすみなさい。急にすみません」
『え?!あ、待っ……!』

綾羽が通話を切ったら、そのすぐ後にまた電話がかかってきた。優一は綾羽がどこにいるか教えて欲しいと言って、場所を告げると近くにいるからすぐに行くと言って駆けつけてくれた。
一緒にそのままバーで追加で2杯飲んで、お祝いだからと支払いもしてもらって、駅まで送ってもらった。そこで、綾羽が「まだ帰りたくない」と言った。

優一は戸惑っていたが、綾羽が優一の指を握ると、手を握り返してくれた。そのあたりから本当に記憶が飛んでいて、ただ不快な思いはしなかったという感覚はあって、今、綾羽は下着姿でベッドにいる。

(あ〜……なんで……最悪、最低。いつもこんなことしてるって思われてるかも。最悪すぎる)

綾羽は急いで服を着て、外に出てコンビニでお金を降ろした。すぐに部屋に戻ると、一万円札を2枚と、謝罪のメモをテーブルに残して、まだ眠っている優一を置いてホテルを後にした。
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