陰キャの橘くん
橘亮太(たちばなりょうた)
名前はまぁ悪くない。それなのに。

しわしわのスーツに、無造作とは言い難い寝癖でハネた髪の毛。長い前髪と黒縁のメガネの奥から覗く目は、死んだ魚のよう。
唯一の長所は高身長というところだが、ひどい猫背のためにその身長すら生かせていない。

しかも肩から斜めに掛けているカバンには…何のキャラクター?
割と大きめのキーホルダーが揺れている。

人は見た目が9割というけれど、ももはそれを信じていない。どんなに見た目が良くても性格悪な人間など腐るほどいる。また、その逆も然り。
そういう輩をたくさん知っている。

さらには個人の趣味嗜好も自由だと思っているし、否定するつもりもない。
その考えのもと、これまで生きてきた。

しかし…。
生理的に受けつけない、というパターンはあるようで。

ダメだ。
私、この子受けつけないかも…。

ももは自分の信念に、初めてと言っても過言ではないくらいの危機感を覚えた。

この日、新入社員はもう一人いて、その子の周りは打って変わって雰囲気が明るい。

倉嶋優花(くらしまゆうか)
今どき女子の22歳。
前髪なんて、アイロンでしっかりセットしちゃってる系。きっと仕上げのスプレーは、無香料のナチュラルキープ。
男ウケ良さそう。
だって名前からして、モテそうだもの。

倉嶋の教育係は、ももの同期である藤堂朱里(とうどうあかり)が担当することになった。
藤堂がももの視線に気づき、「ご愁傷さま」とでも言わんばかりに顔の前で手を合わせる。
ももは藤堂を睨みつけた。

「…あの…。」

後ろからかすれた声が聞こえてきて、慌てて笑顔を取り繕う。
「うん?どうした?」
ももが振り向くと、思いのほか近い距離に橘が立っていた。自然と後ろに一歩下がる。

「…あ、あの…、名前…。」
「え?」
ももは、作り笑顔のまま聞き返した。声が小さすぎて本当に聞こえないんだけど。
「な、名前…。」

あぁ、名前ね。
「長瀬です。よろしくね。」

しかしせっかく名乗ったというのに、橘はメガネの奥からじっと見つめてくる。
「し、下の…名前は…。」

そこ必要!?と突っ込みたくなる気持ちを抑える。
「ももです。長瀬もも。」

すると、橘の口元が緩んだ。
「…もも…。ながせ、もも…。」
ニヤリと笑い、ふふっという低い声がもれた。
「も、も…ももさん…。か、かわいい…名前、ですね。」

その言葉に、ももはあ然とした。
全身に鳥肌が立ち、そのザワザワという音が聞こえるのではないかと思うほどだ。

男から、名前がかわいいと言われた。
今まで生きてきて、「おばあちゃんみたい」と言われたことはあったが、「かわいい」というワードには無縁だった。
その記念すべき初めての瞬間を作り出した男が、なぜか目の前にいる、The陰キャ。

「ありがとう」という簡単な一言すら発することをためらわれ、ももは聞こえないふりをして自分のデスクに戻った。
仕事しよう、仕事。うん、仕事。
呪文のように言い聞かせる。

結果、翌日からももの服装がいつもどおりのパンツスタイルに戻ったことは言うまでもない。

ちなみに足元の方は、女性らしさを感じさせつつも作業に差し支えない、ヒール高が2.5cmのパンプスだということも付け加えておく。
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