氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~

悪女の過去 01

(ここは……?)

 目覚めたものの、視界に入ってきたのは見覚えが全くない天井だったのでネージュは戸惑った。
 貴族の屋敷とほぼ遜色ない印象を受ける内装だ。
 そんな部屋の中の豪華なベッドにネージュは横たわっていた。

 少しでも身動(みじろ)ぎすると左の脇腹が痛む。また、発熱しているようで、全身が(だる)くて熱かった。
 体を起こせそうになかったので、ネージュは目線だけを移動させて室内を確認する。

 すると、ベッドの傍に置かれた椅子に座り、目を閉じているアリスティードの姿が視界に入ってきた。どうやら座ったまま眠っているようだ。

 もしかして、ずっと近くにいてくれたのだろうか。
 そうだったらとても嬉しいけれど、ジャンヌに申し訳ない。
 ネージュはいたたまれない気持ちになって、規則正しい寝息を立てるアリスティードを見上げた。

 端正な顔は、目を閉じているといつもより少し幼く見える。
 顔色が悪いのは、きっとこんな場所でうたた寝をしているせいだ。

「アリスティード様」

 ネージュは彼を起こすために声を掛けた。
 喉がからからに乾いており、自分でもびっくりするほど掠れた声が出た。

 しかし、それでも彼にはちゃんと届いたようで、目蓋がゆっくりと持ち上がった。
 そして、鮮やかな深緑の双眸がネージュの姿を捉える。

「ネージュ、意識が……」

 アリスティードはどこか呆然とつぶやいた。

「ずっと眠り続けていたから心配した。気分は?」

 不安そうな顔を向けられ、ネージュは目を見張った。
 こんな彼の表情を見るのは初めてだ。

「えっと……いいとは言えませんが悪い訳でもないです」
「……怪我をしているから当然だと思う」

 アリスティードは立ち上がると、壁際の戸棚に置かれた水差しから、グラスに水を注いで持ってきてくれた。

「水分を取った方がいい」

 言いながら、アリスティードはネージュの背中に手を回して体を起こし、グラスの水を飲ませてくれた。

「ありがとうございます。もう大丈夫です」

 喉が潤うとホッとした。

「まだ熱がある」

 体に触れた時にわかったのだろう。アリスティードは顔をしかめた。

「……怪我のせいでしょうか」
「たぶん」

 頷いた彼はどこか機嫌が悪そうだった。

「あの、ここは……? 私はどれくらい意識を失っていたんでしょうか」

 ネージュは恐る恐る尋ねてみた。



 ここは、視察のために侯爵家で手配していたホテルだった。

 意識を失ったネージュを抱えて襲撃現場から離れたアリスティードは、一番近くにあった民家に助けを求め、ホテルで待機していた侯爵家の使用人や医者を呼んだらしい。

 幸いネージュの左脇腹の傷は、そこまで深刻なものではなく、銃弾を掠めただけだった。しかし、心労も祟ったのか、丸一日眠り込んでいたらしい。

 ――と説明しながら、アリスティードは痛み止めだという薬湯を用意してくれ、手渡してきた。

 ネージュはそれを口にしながら、室内を観察する。
 ここは、アリスティードとジャンヌの為に手配した、一番いい部屋に違いない。
 襲撃というイレギュラーがあったから、ネージュをここに運び込んでくれたのだろう。

(ジャンヌさんに申し訳ないわ……)

 何もなければ、夜は恋人同士の楽しい時間を過ごせただろうに。

 そして、何の役にも立った事のない予知能力が恨めしくなる。
 日常の風景ではなくて、こういう危機を事前に夢で見せてくれたら良かったのに。

「……ジャックとブランシュはどうなりましたか?」

 御者と馬の事を尋ねると、アリスティードは沈んだ表情になった。

「俺が確認した時には、もう……」
「……そうでしたか」

 ジャックの遺族には相応の補償をしなくてはいけない。後でエリックに相談しなければ。

「襲ってきた人達はどうなりましたか?」

「全員死んだ。一応断っておくが、ネージュが撃った奴は生きてた。とどめを刺したのは俺だから、あんたは一人も殺してない」

 その発言はきっとネージュを気遣ってのものだろう。
 真偽はともかく、ネージュはアリスティードの心遣いを嬉しいと思った。

 自分は世間の噂通り、氷のように冷血なのかもしれない。

 ネージュは膝の上に置いた右手を見つめた。
 この手で人を撃ち殺したかもと思うと怖い。だけど、罪悪感以上に、自分達を護りきったのだという達成感の方が強かった。

 あの時に撃たなければ、アリスティードは殺されていた。
 襲撃犯にネージュを殺すつもりはなかったようだが、捕まっていたらどうなっていたかわからない。

 体と心の自由を奪われるのは、ネージュにとっては死ぬよりも辛い事だ。
 直前に夢で見たせいだろう。またダニエルの顔が脳裏をよぎった。

「連中の遺体は町の警邏隊に引き渡して調査させてる。でも、今のところ、素性に繋がるものは何も見つかってない。一人くらい生け捕りにしておくべきだった」

 アリスティードの発言に、ネージュは現実に引き戻された。

「あの状況では難しかったと思います」

 ネージュは首を振る。

「……あんたじゃないよな?」

 真剣な表情のアリスティードに尋ねられ、ネージュは目を見開いた。

 確かに彼が死んだら自分は得をする。自分を嫌い抜く夫を亡き者にすれば、もう一度相続人という立場が戻ってくるからだ。
 疑いを向けられる理由はわからないでもないが、心臓が締め付けられるように痛んだ。

「違います! 私がアリスティード様に危害を加えるなんて絶対に有り得ません! 説得力はないかもしれませんが、信じて頂きたいです」

「わかってる。直接きっぱり否定して欲しかっただけだ」
 
 アリスティードはネージュに頭を下げた。

「ネージュが居なかったらかすり傷では済まなかったはずだ。何を言っても言い訳になるが、俺も今、訳がわからなくて混乱してる……」

 そう告げる彼の顔は、迷い子のように見えた。

「一つだけ聞きたい。あんたは、マルセルにどんな感情を持ってるんだ」

「尊敬です」

 即答すると、アリスティードは目を見張った。
 その表情に、ネージュは彼に、マルセルとの関係について、ちゃんと話をした事がない事に今更ながらに気付く。

 きっと何を言ってもわかって貰えないだろうと、対話を諦めていた。
 だが、今の彼は、聞く気になってくれている。

 チャンスだと思った。

 ネージュは悪女だと思ってくれていい。でもマルセルは違う。尊敬に値する立派な人物だったとわかって欲しい。

「私のお腹の傷痕をご覧になりましたよね? あれを私に付けたのは、マルセル様の弟のダニエル様……あなたの大叔父にあたる方です。マルセル様はダニエル様から虐待を受けていた私を救い出し、保護者として色々なものを与えて下さいました」

 ダニエルの名前を口にすると、今でも心拍数が上がって全身に鳥肌が立つ。
 しかしネージュとマルセルの関係を語る上で、どうしてもこの話は避けられない。

 ネージュは気持ちを平坦に保つために深く呼吸した。
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