氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~

絡まる思惑 05

 一日の講義を終えたアリスティードは、前日に倒れたネージュが心配だったので、彼女の部屋へと向かった。

 しかし、部屋の前までやって来たものの逡巡する。
 ナゼールの裏切りが発覚してから、アリスティードはネージュとの距離を測りかねていた。

 二の足を踏んでしまうのは、罪悪感だけでなく、ネージュに対する感情の変化や、彼女の無防備な危うさのせいだ。

 氷の精霊のように恐ろしく整った美貌の持ち主で、恐らく本人も自分の容姿の良さには気付いてはいるのに、驚く程に自己評価が低い。

 体に傷があるから。感情を顔に出すのが苦手だから。出自のよくわからない孤児だから――。
 そんな事で彼女の価値は下がらないのに。

 謙虚で献身的、努力家、几帳面、物静か。
 また、侯爵家の令嬢として育てられただけあって、言葉遣いも所作も優雅で上品だ。

 少し接するだけでもたくさん良い所が見つかるのに、自分を取るに足りない存在と思い込んでいるネージュを見ていると、仄暗い感情が湧き上がる。

 このまま永遠に自分の魅力に気付かず、そのまま殻に閉じこもっていればいいのに。
 そんな気持ちが自分の中にあると気付いた時、アリスティードは自覚した。
 自分は、ネージュに惹かれている。

 恋愛感情に気付いたら、加速度的に気持ちが膨らんでいった。
 そして、ナゼールに騙されていたとはいえ、ネージュの噂を鵜呑みにした自分に後悔した。

 彼女は気にしていないと言ってくれたが、マイナスからのスタートなのは間違いない。
 どうすれば過ちを精算して、彼女の心を手に入れる事ができるのだろう。

 優しく接して、尊重して、だけど、それだけではきっと足りない。
 彼女は自分を卑下しているが、むしろ彼女に釣り合っていないのはこちらの方だ。

 アリスティードは憂鬱になってきてため息をついた。
 その時だった。

「ネージュ様に何かご用ですか?」

 背後から声をかけられた。
 考え込んでいたせいで全く気付いていなかったが、いつの間にやらミシェルがそこに立っていた。

 ネージュ付きの侍女である彼女は、アリスティードへの当たりが一番強い使用人だ。
 爵位を継承した今、彼女の人事権を握っているのは自分のはずなのだが、ネージュ至上主義を貫き通している。

 だが、アリスティードは、ネージュへの酷い態度の戒めとして、彼女の態度を容認していた。

「……様子を見に」
「さようでごさいますか」

 アリスティードに向かってどこか不機嫌そうに答えると、ミシェルは手にしていた本をこちらに差し出してきた。

「こちらはネージュ様に頼まれていたものなのですが、もしよろしければお見舞いのついでに届けて頂けませんか?」
「わかった」

 了承して本を受け取ると、ミシェルは小さくつぶやいた。

「ネージュ様は淡いピンクの花を好まれます」

 アリスティードは思わずミシェルの顔をまじまじと見つめた。彼女は不本意そうな顔をしている。

「次にお見舞いの機会がございましたら参考にどうぞ」

「何故そんなアドバイスを? ミシェルは俺をよく思ってないはずだ」

「そうですね。私はネージュ様への酷い態度の数々を忘れておりません」

 ミシェルは小さく息をついた。

「でも、ネージュ様はアリスティード様を支えるとお決めになりました。だから仕方ないなと。……それに、褒められたものではない態度を取る私を、解雇しようとはなさらなかったですよね。そこは……その、ありがたいと思っています」

 そう告げると、ミシェルはバツが悪いのか目を伏せた。

 ネージュを悪女と思い込んでいた時は、ジャンヌの力を借りて彼女を追い出すつもりだった。だが、今は違う。

「ネージュが傷付く可能性のある事はしない。それに、ミシェルのように、あの人を一番に考えられる存在は必要だと思ってる。俺がまたおかしな事をしようとしたら止めて欲しい」

「……かしこまりました。ありがとうございます」

 ミシェルはどこか悔しげに告げると、「他にも仕事がありますので」と一礼して去っていった。

 足早に立ち去るミシェルの背中を見送ってから、アリスティードはネージュの部屋のドアをノックした。



   ◆ ◆ ◆



 応答を待ってからネージュの部屋に入ると、彼女はベッドの中で読書していたらしく、膝の上には本が置かれていた。

「体調はどうですか?」

 アリスティードは緊張しながら声を掛けた。
 すると、ネージュは淡い微笑みを返してくる。

「もう大丈夫ですが、今日は安静にするようにとお医者様から言われてしまいました」

「傷口が開いた訳ではなかったみたいですね。良かったです」

「そうですね。急に動いたから体がびっくりしたみたいです。明日からは、少しずつなら奉納舞の練習を始めてもいいとお許しが出ました」

「俺も立ち会わせて貰います。来年以降は俺の役目になるんですよね?」

「はい。大変だと思うのですが、引き継ぎの前準備とお考え下さい」

 ネージュはアリスティードに頭を下げた。
 ――こんな事で頭を下げる必要なんてないのに。

 アリスティードは沈んだ気持ちを悟られないように心の中に押し込めてから、ミシェルに渡された本を差し出した。

「これは?」
「ミシェルから預かりました」
「ああ……。書庫から持ってきて欲しいと頼んでいたものですね。ありがとうございます」

 ネージュは手を伸ばすと本を受け取った。
 それは、二年ほど前に大流行した海洋冒険小説だった。

「そういう物を読まれるんですね」
「マルセル様がお好きだったんです」

 ネージュは愛おしげに本に触れた。
 その時である。
 手を動かした拍子に体にかかっていた毛布がめくれ、下から扇が出てきた。

「これは?」

 アリスティードの質問に、ネージュは気まずげに目を逸らした。

「奉納舞で使われる扇に見えるんですが」
「……そうですね」

 アリスティードが追及すると、ネージュは渋々と認めた。

「まさか、またこっそり練習してたんじゃ……」
「手の型だけです。体は動かしていません」

 ネージュは不服そうに弁解してくる。

 豊穣祈年祭で神子が舞う奉納舞は、何度か見た事がある。
 女神アルクスの神器である扇を使った優雅な舞だ。

 彼女の性格上、祭礼まで日が迫っている今、大人しく療養しているなんてできないのだろう。

「本当に手の型だけですか?」
「はい」

 じっと見つめるが、元々表情に乏しい人物なので、何も読み取れなかった。

「昨日は皆に叱られてしまいましたから、本当に手だけです」

 ネージュは目を伏せると、小さく息をついた。

「……信じますけど無理はしないで下さい」
「しません。お約束します」

 キッパリと言い切ると、ネージュは小指を差し出してきた。

 不意討ちのように幼い子供のような仕草を見せられて、不覚にも心臓が高鳴った。
 しかもネージュは至って真剣な表情をしているのだから性質(たち)が悪い。
 アリスティードは敗北感を覚えながら、ネージュの小指に自身の小指を絡めた。
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