青春は、数学に染まる。

帰宅


乗り切った。伊東と早川先生に会うことなく1日が終わった。

数学補習同好会に行くとも行かないとも何も言っていない。だけど行かなくても、早川先生はどういうことか理解してくれるはず。




伊東のことは…知らない。






「しかし、2日休むと大変だぁ」


私は担任の許可を得て教室に1人残っていた。
有紗からノートを借りて、休んでいた間の板書を書き写す。

眠かったのか、所々文字がヘビのようになっていて面白い。


「……」

ふと窓の外を見た。



オレンジ色の夕日が差し込んで何も書かれていない黒板を照らす。

外に意識を向けると、運動部が練習をしている声が聞こえてくる。

窓の向かいは体育館。入口の横に置かれた自動販売機の周りには、生徒数名が集まっていた。




私、放課後の学校が好きだ。


ボーっと外に目を向け考え事をしていると、廊下からこちらに向かってくる足音が聞こえて来た。

ここは教室棟だし、放課後はそうそう人が来ない。

担任かな?



そう思い、廊下の方に目を向けると、扉の窓に足音の(ぬし)が映った。

「げ…」
「藤原さん」

名前を呼びながら教室の扉を開けた…早川先生だ。

「あからさまに嫌そうな顔をしないでください。傷付きます」

教室に入ってきた早川先生はゆっくり私に近付いてくる。

「どうしてここが分かったのですか」
「飛谷先生から聞きました」

あいつめ…。口止めしておけば良かった。
飛谷先生とは私の担任だ。


早川先生は私の隣の席に座った。いつもの白衣は着ておらず、代わりに黒い背広を着ている。



「先生。放課後の教室で生徒と2人でいるところを見られたら誤解を招きますよ。担任でもないのに」
「すぐ戻るから大丈夫です。僕は様子を見に来ただけですから」

そう言いながら私の頭を撫でた。

「だから、それがダメなのですよ」
「問題ありません。ところで藤原さん…。金曜日は突然押しかけてすみませんでした」

“問題ない” の根拠はどこにあるのか分からない。
早川先生は真っ直ぐ私の目を見ながら謝ってきた。

「今日は来てくれて良かったです」
「流石にもう休めませんから。…伊東先生は何か言っていましたか?」

撫でていた手を止めて少し不機嫌そうな顔をした。

「あの人とは会話をしていませんから分かりません。…伊東先生は今日、藤原さんの事を探しに来ましたか?」
「いえ…会っていないので、探してはいないと思いますが…」
「来ていないでしょう。そういうことですよ。所詮あの人は口だけなのです」

その言葉1つで早川先生と伊東は仲直りをしていない事が容易に分かる。

「では、僕は戻ります。数学補習同好会の方は気にしないで下さい。補習自体も当分行いませんから。伊東先生と僕の事も気にしないで下さいね」
「あ…」

そう言って足早に教室から出て行った。




「…はぁ」 

私は気を取り直してノートを書き写すことに集中する。



結局、早川先生は何しに来たのだろう。



 


全てを書き写すのに意外と時間が掛かった。
終わった頃には外も真っ暗になっていた。





教室の鍵を返しに職員室へ向かう。
廊下の電気は消されており真っ暗になっていた。
 

長い廊下が職員室の場所だけ明るく照らされている。明かりはついているが、人の声は全然聞こえてこなくて少し不安を覚えた。

「………失礼します…」

恐る恐る職員室の扉を開けると、担任の飛谷先生がいた。

「藤原さん、終わりましたか」
「はい。遅くまですみませんでした」

飛谷先生はニコっと微笑みながら目の前に来たので、鍵を先生に渡した。

「外は真っ暗です。十分気を付けて帰ってください」
「はい、ありがとうございます。さようなら」
「さようなら」

職員室に他の先生の姿は見えなかった。飛谷先生は私が終わるまで待っていてくれたのだろうか?

申し訳なかったな…。





昇降口まで向かう廊下はやはり真っ暗。窓の外に目を向けると、お店や家の灯りで街がキラキラしていた。学校は高台にあり市内を一望することが出来る。ここから見る夜景はこんなにも綺麗だったんだ…。



「藤原さん」
「……え?」

夜景に見惚(みと)れていて気付かなかった…。声の方向を振り返ると、早川先生が鞄を持って立っていた。

「早川先生…何で」
「藤原さんが教室の鍵を返しに来るまで職員室で待っていました」


全然気付かなかった。職員室を見回した時、他の先生の姿は見えなかったのに。


「ここからの夜景、綺麗でしょう」
「はい…綺麗です」

早川先生も窓の方を向いて外を見た。

「見慣れた夜景も、藤原さんが隣に居ると特別に感じます」
「……」

またそんなことを平然と…。顔を上げて早川先生の顔を見る。先生は、真っ直ぐ外を向いたままだった。

まだ顔に貼ってあるガーゼが痛々しい。



「藤原さん。もう真っ暗ですから。家まで送ります」
「え、そんなの申し訳ないです。隣の市ですし…」
「構いません。というか、僕が送りたいのです。気にしないで下さい」

行きますよ、と私の肩を軽く叩いた。

「でも先生、誰かに見られたら誤解されますよ」
「大丈夫です。教師としてまだ許される範囲ですから」
「何それ。範囲なんかあるのですか」
「目には見えないボーダーラインという物ですかね」
「……変なの」

私が笑うと早川先生も笑った。



暗い廊下を他愛のない話をしながら歩く。
夜の学校は、私の気持ちを高揚させる。


「藤原さん、車をこちらに回します。昇降口で待っていて下さい」
「分かりました」


早川先生は急いで靴を履いて外に出て行った。



私も靴を履いて昇降口の外で待つ。
生徒も教師も殆どいない学校。この雰囲気が本当に大好き。


「今日、こんな遅くまで残れて良かったなぁ」

私は昇降口前の階段に座って早川先生を待つことにした。




スマホを取り出して時間を確認すると、後ろから名前を呼ばれた。


「……あれ、藤原…」
「え?」

振り返ると昇降口から出てきた伊東が立っていた。




本当にタイミングの悪い人…。
ギネス認定を出来るレベルかもしれない。



「どうしたん」
「休んでいた時の勉強をしていたら遅くなってしまって。早川先生が送ってくれるとのことでしたので、待っています」
「出た………早川」

伊東は早川先生の名前を聞くと、眉間に皺を寄せた。


ほら…こうなる。これが本当に嫌なんだけど。




私は伊東の方を向かずに正面を見続ける。溜息をつきながら伊東は隣にしゃがみ込んだ。

「藤原…先週は申し訳なかった。あんなところ見せてしまって…本当に後悔している」
「……」
「本当はすぐにでも謝りたかった。やっぱり、悔しいけど…俺と藤原は接点が無いからさ。藤原が数学科準備室に来てくれなかったら会うことすら難しかった。本当にごめん」
「もう良いです…」

ずっと伊東の方を向かずに正面を見ていると、横から車のライトが差し込んできた。早川先生だ。

「…藤原、ありがとう。早川に送ってもらうこと、今日は何も言わないよ。また数学補習同好会で待っているから。じゃあな」

そう言って伊東は足早に去って行った。




「…………本当、何なの」

何でこうもタイミング悪く伊東が現れるのか。(いや)になってくる。

私は両手で顔を(おお)って(うつむ)いた。



「はぁ…」



最後の最後に、とんでもない疲労感に(おそ)われた。




早川先生は車から降りて、急いで私の元へ駆け寄ってきた。

「藤原さん、大丈夫ですか。伊東先生に何もされませんでしたか?」


心配そうに顔を(のぞ)き込みながら私の鞄を手に取る。

「謝られただけです。勿論(もちろん)、許しましたけど…。どうしてこうもタイミングが悪いのでしょうね」
「………」

早川先生はすっとしゃがみ込んで私の頬にそっと指を当てた。気付かないうちに涙が零れていたみたい。

「…すみません」
「藤原さん、優しすぎます」
「そうですかね」
「見てられません…」

そう言う早川先生の目も涙で少し潤んでいた。
悲しそうな表情に胸が痛む。

「…帰りましょう。乗ってください」
「はい」

眼鏡を外して目を拭ったあと、車までエスコートしてくれた。





早川先生の車は黒色のセダン。大きなカーナビが付いていて、車内は石鹸の香りが(ただよ)っている。
大人な雰囲気(ふんいき)に緊張して心臓がドキドキした。

「行きますね」
「お願いします」

早川先生は前髪をクシャクシャした後、車を発進させた。


「前髪、何でいつも七三分けなのですか」
「七三分けじゃない方がかっこいいですか」
「えっ」

横目でチラッとこちらを見る時に、目に少し掛かる長い前髪が揺れる。

「いえ、冗談です。別に自分がかっこいいとも思っていません。ただ、七三分けをしている時の僕はあくまでも“先生モード”の僕。前髪を崩したら“一人の男として”の僕。その違いです」
「そうですか…」

とはいえ、最近は先生モードの時に男としての僕が出てくるので困るのですけどね。と微笑んだ。



何も言えない…。


早川先生の第一印象は『七三分けが残念な若そうな人』だったが。七三分けが崩れるとだいぶ印象が変わる。

少し幼く見えるかな。だけど七三分けよりはかっこいい。

伊東とはまた違ったかっこよさがある。

「先生、遠いのに送ってもらってすみません」
「別に何も問題ありません。実は、僕も藤原さんと同じ市に住んでいるのです」
「え、そうなのですか」
「だから本当に気にしないで下さい。ただ…そのことは秘密でお願いしますね」

お友達にも秘密にしといて下さい、と付け足した。
 



学校から家まで車で約40分。
他愛のない会話をしていると、あっという間に家に着いた。途中から緊張は解け、早川先生と2人きりの状況に安心感さえ覚え始めた。

「藤原さんが帰るまで待っていて良かったです。心地良(ここちよ)い時間をありがとうございました」
「こちらこそ、家の前までありがとうございました」

早川先生と目を合わせて微笑む。先生も微笑んで、頭を優しく撫でてくれた。先生が撫でてくることに違和感(いわかん)が無くなってきている自分が怖い。

「では、また明日」
「先生さようなら」


私は早川先生の車が見えなくなるまで見届けた。


その後、部屋に入ってからも心臓がずっとドキドキして…全然落ち着かなかった。






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