青春は、数学に染まる。

真帆と早川先生


放課後、またスピーカーから私の名前が聞こえてくる。


『1年2組、藤原真帆。藤原真帆。至急、数学科準備室まで』


「えぇ……………」

鳴り響く校内放送。しかし、この声は多分伊東だ。何の用かな。

今日も補習には行かず帰ろうと思っていたのに。


その上、数学科準備室に呼び出すなんて。

「行きたくないのだが…」

思わず大きな溜息が出る。しかし…呼び出されては仕方ない。



私は渋々向かうことにした。








「よぉ」

数学科準備室の前で、伊東が突っ立っていた。

「…校内放送しないでください」
「そうでもしないとお前来ないだろ…」
「はい。今日も帰る予定でした。というか、伊東先生が何の用ですか」
「俺だって数学補習同好会の副顧問だからな。用が無くても呼び出す権利はある」

意味わかんない。用事無いんかい。
私を扉の前に誘導し、伊東は勢いよく扉を開ける。


「まぁ、入れよ」

そう言われ渋々と部屋に一歩入ると、ソファに座っている早川先生の姿が見えた。

「!!」

体が勝手にUターンする。逃げ出そうとすると、セーラー服の襟を掴まれた。

「逃げんな」
「……」

逃げんなって…伊東にだけは言われたくないよ。
そんなこと思いながら数学科準備室に引きずり込まれた。

「伊東先生、私帰る」
「帰さない」
「いやだ」
「俺もいや」

子供みたいなやり取りをする。

「あんまり騒ぐと抱き締めるぞ」
「ふん、好きにすればいいです」

伊東の抱き締めるというワードに反応した早川先生がこちらを見た。


もう私も投げやりだ。





伊東は抱き締めずに私のセーラー服の襟を掴んだまま、大きく溜息をついた。

「…はぁ。何だよ、マジでお前ら…。おい、早川。お前早くしろよ」

伊東に早川先生の向かいのソファに座るよう促される。

渋々座って、早川先生と向き合った。久しぶりに近くで見た先生の顔は、少しやつれているような感じがした。

「藤原さん…。この度は誠に申し訳ございませんでした」

目を合わせた早川先生は、そう言いながら深々と頭を下げる。



申し訳ないって何?
別れを告げたこと?


沸々と怒りが込み上げてくる。
早川先生も伊東も…謝って済むとでも思っているのだろうか。



「……」
「かてぇーよ」

そんな伊東のツッコミを無視して、早川先生は私の横に移動してきた。

「え」
「隣、ごめんなさい」

隣に感じる先生の体温。
胸が苦しくて辛い。

「藤原さん。僕のこと…まだ好きでいてくれていますか?」

久しぶりに早川先生の顔を近くで見た。
その瞳は不安そうに揺れていた。


「好きですよ…。私も先生の事が好きなのに、私の意思を無視して別れを告げたのは先生の方でしょう…!」
「…そうですね。僕がしっかりと考えずに直感で言ってしまいました。申し訳ございませんでした」
「睦月に言われたんだってよ。別れた方が良いって」
「…はい。睦月先生にそう言われ、お別れする事を決めました。けれど、全て間違いでした…」


自分勝手だな、早川先生。真っ先にそう思った。
私の意見を聞かずに、睦月先生の言うことを真っ先に聞くんだ。


そして、保健室で有紗と話したあの日、睦月先生が少し微笑んでいたのが気になっていたけれど。そういうことだったんだ。



睦月先生は、私の話を聞きながら笑っていたんだね。



……最低、本当に最低。


大人って、卑怯だ。






「…先生、あの日から私、本当は先生に会いたくて、お話したくて…(たま)らなかったです」

会いたく無かったけど、会いたかった。
複雑な感情でいっぱいだった。

「先生に対する怒りもありましたが、それ以上にやっぱり大好きだったから。苦しかった…」
「僕も…あの時のこと、毎日後悔していました。本当に馬鹿でした」

伊東が居るからだろうか。早川先生は涙を(こら)えていた。


「はぁ、本当に馬鹿だな。………俺も、お前らも」

そう言いながら伊東は数学科準備室から出て行った。



伊東が出て行き、部屋には静けさが訪れる。
私は何も言わずに、無言で一点を見つめていた。



「……」
「………藤原さん」
「先生の馬鹿」

我慢していた涙が零れてくる。

「…はい。大馬鹿です」
「……馬鹿、馬鹿!! 先生の馬鹿!!」

早川先生の腕を叩くと、先生は体の向きを変えてそのまま私を抱き締めた。力強い抱擁(ほうよう)に胸が熱くなる。

「藤原さん、本当にすみませんでした。本当に反省をしております。…あの、もし宜しければ、もう一度お付き合いをして頂けませんか…」

震えた声と腕が早川先生の心情を表している。

「…今回の事は許します。その代わり、また同じことをしたら…もう次はありませんから…」
「…はい。本当にありがとうございます。…やっぱり、藤原さんは優しいです」
「先生は自分勝手すぎます…」
「ごめんなさい…。もう、しませんから…」



先生の震える手は治まらない。

自業自得でしょ。
そう思うのに、震える先生に対してどうしようもなく愛おしい感情が溢れてくる。




「ねぇ、先生。約束して下さい。1人で結論を出さず、私にも相談をすることを」

子供だから頼りないかもしれない。
相談されても良い結論が導き出せないかもしれない。



だけど、私は先生の “彼女” なのだから。
1人で抱え込まずに話して欲しい。



今回の件だって…。
睦月先生にこう言われたと、まずは話してくれたら良かったのに。 



そこからだよ。
別れるか付き合い続けるか、結論を出すのは。






早川先生は抱き締めている腕に力を加えた。
それと同時に、先生から零れた涙が私の頬を濡らす。
 
「はい、勿論です…。お約束します」

そう言いながら先生は私の顔を見た。


先生も私も涙でぐちゃぐちゃだ。


「藤原さん、泣きすぎです」
「それ、先生にだけは言われたくありません」


お互いに微笑みながら優しく唇を重ねる。




久しぶりのキスは涙の味だった。







気付けば外はもう真っ暗になっていた。
暗闇の中をひらひら舞う白い雪に、部屋の明かりが反射している。



ゆっくりと落ちていく雪が、キラキラと輝いていた。









 
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