ヒツジちゃんのぼやき
"BE A GOAT,NOT A SHEEP"
私は飼い慣らされた一匹のヒツジだった。
ヒツジとして生きることに何の疑問も持たずに、牧場の中だけで育てられてきた。
牧場の外にいる様々な生き物には目を瞑って、自分と群れのヒツジとヒツジ飼いだけがこの世界の全てだと思って…
私はある時、牧場の外からこちらをじっと見つめるヤギを見つけてしまう。
そのヤギはとても美しく逞しい姿をしており、私は初めてヒツジ以外の動物を生き物だと認識した。
目が合うとヤギは私に話しかける。
「可愛いヒツジちゃん、向こうに美味しい草場があったよ、食べに行こうよ」
私はヤギに尋ねる
「私を牧場の外に連れて行くの?」
ヤギは笑いながら
「ついてきて」
と言って、歩き始めた。
私はヤギの逞しく美しい姿に魅了され、追いかけずにはいられなかった。
ヤギの背中だけを見て歩いていたら、気付いたら牧場からかなり離れていた。
ヒツジ飼いに私が離れたことがバレるだろうか?
群れのヒツジ達は気付くだろうか?
連れ戻そうとするだろうか?
怒られるだろうか?
罪悪感が頭の中によぎるが、とにかくヤギの言う美味しい草場というのに行ってみたかった。
ようやく草場に到着したヤギと私は、生い茂る草を貪る。
初めて食べる牧場の外の草の味は、沢山歩いたせいか美味しく感じた。
私は、本当に牧場の外にも美味しい草場があることに驚いた。
私はヤギに尋ねる。
「ヒツジ飼いがいないのに、誰がこんなに美味しい草場を作っているの?」
ヤギは不思議そうな顔で答える
「誰も育てたりしていないよ、自分で見つけた草場ってだけ。もっと美味しい草場を見つけたらそこに移動するだけさ。」
美味しい草場は牧場の外にもあったのか。
ヤギはそれを自分で見つけ、食べて生きているのか。
なんて賢くてかっこいい生き物なんだ。
ヤギという生き物を知った私は、牧場の中で生きることをやめて旅に出ようと決心した。
私も自分で見つけた草場で食べてみたかった。
もっと美味しい草場というのがあるのなら、それを自分で見つけてみたかった。
そうすればきっとヤギのようになれると、逞しく美しい姿になれると思ったのだ。
あれから8年の月日が経ったが、私はまだヒツジの姿をしている。
牧場の外で生きるには、あまりにもヒツジの身体は弱く、真っ白で美しかった毛も汚れて、私は真っ黒いヒツジになっていた。
もう群れに戻ることは出来ない。
もうヒツジ飼いはヒツジとしての価値の無い私なんていらないだろう。
ヒツジ飼いはきっと、ヒツジとして産み落とした私を、ヒツジらしく生かすことが私にとって最もな幸福だと考えただろう。
だがヤギを知ってしまった私は、もうヒツジとして生かされ続けることに喜びを感じられない。
自分と同じ草食でありながら、群れずに1匹で生きている。
ヒツジよりも圧倒的に賢くかっこよく、逞しく美しい種を知ってしまった私は、自分の存在意義を疑ってしまった。
"ヤギのようになりたい"
これはヒツジとして刷り込まれたのではなく、私が、一個体として初めて望んだことだ。
ヒツジとして生まれた私が、ヒツジらしく生きることを辞めた、その後の自伝を書いてみよう。
私はこのまま旅を続けて、どんな姿で死を迎えるのだろうか…?
- - - - - - - - - - - - - - - - - ✄
私はカバートアグレッション(Covered aggression)の母のもと生まれ、母の持ち物として大切に管理されて育ってきた。
そんな私が14歳の時初めて付き合った男の子は、自分と大差無い年齢で、"自分の人生"を自分で選んで生きていた。
"母の望みを叶えること"だけが"自分の人生"なのだと思っていた私にとって、彼との出会いは衝撃的だった。
彼は自分で稼いだお金で食事をし、友達と遊び、私と同じ習い事をしていた。
そして経済的な自立はもちろんだが、心の自立というものを私に教えてくれた。
心の自立というのは、"自分自身の気持ちや思ったことを認め、それに責任を持つ"ということだ。
私が塾帰りに彼と遊んでる最中に、親から説教の電話がかかってきたことがあった。
彼は私のスマホを取って、見ず知らずの私の親に物申してくれたのだ。
他人の親の電話に出るのが怖くなかったのかと聞くと
「全く怖く無い、思ったことを伝えただけだ」
と言った。
他人の親に物申せるほどの自分の気持ちへの自信、行動に移す度胸というのは、本当にかっこ良くて胸打たれたのを覚えている。
私は彼のように、心が自立した人間になりたいと思った。
私は母の望みで入学した中学校を辞め、その後入った高校も中退し、16歳で働き始めた。
現在22歳になる私は、しがない絵描きである。
いや、絵描きとして食べていけていない以上、ただのフリーターである。
どこで選択を誤ってしまったのか、思い返せばいくらでも反省するべき点はあった。
周りに堕落したなどと言われても仕方が無いだろう。
だが、私自身は自分のしてきた選択に後悔はしていない。
楽に生きることを良しとするのなら、自ら牧場の外に出ることはしなかっただろう。
"全てを自分で選び行動することで、自分の気持ちに責任を持つ"
これは私の人生のポリシーなのである。
ヒツジとして生きることに何の疑問も持たずに、牧場の中だけで育てられてきた。
牧場の外にいる様々な生き物には目を瞑って、自分と群れのヒツジとヒツジ飼いだけがこの世界の全てだと思って…
私はある時、牧場の外からこちらをじっと見つめるヤギを見つけてしまう。
そのヤギはとても美しく逞しい姿をしており、私は初めてヒツジ以外の動物を生き物だと認識した。
目が合うとヤギは私に話しかける。
「可愛いヒツジちゃん、向こうに美味しい草場があったよ、食べに行こうよ」
私はヤギに尋ねる
「私を牧場の外に連れて行くの?」
ヤギは笑いながら
「ついてきて」
と言って、歩き始めた。
私はヤギの逞しく美しい姿に魅了され、追いかけずにはいられなかった。
ヤギの背中だけを見て歩いていたら、気付いたら牧場からかなり離れていた。
ヒツジ飼いに私が離れたことがバレるだろうか?
群れのヒツジ達は気付くだろうか?
連れ戻そうとするだろうか?
怒られるだろうか?
罪悪感が頭の中によぎるが、とにかくヤギの言う美味しい草場というのに行ってみたかった。
ようやく草場に到着したヤギと私は、生い茂る草を貪る。
初めて食べる牧場の外の草の味は、沢山歩いたせいか美味しく感じた。
私は、本当に牧場の外にも美味しい草場があることに驚いた。
私はヤギに尋ねる。
「ヒツジ飼いがいないのに、誰がこんなに美味しい草場を作っているの?」
ヤギは不思議そうな顔で答える
「誰も育てたりしていないよ、自分で見つけた草場ってだけ。もっと美味しい草場を見つけたらそこに移動するだけさ。」
美味しい草場は牧場の外にもあったのか。
ヤギはそれを自分で見つけ、食べて生きているのか。
なんて賢くてかっこいい生き物なんだ。
ヤギという生き物を知った私は、牧場の中で生きることをやめて旅に出ようと決心した。
私も自分で見つけた草場で食べてみたかった。
もっと美味しい草場というのがあるのなら、それを自分で見つけてみたかった。
そうすればきっとヤギのようになれると、逞しく美しい姿になれると思ったのだ。
あれから8年の月日が経ったが、私はまだヒツジの姿をしている。
牧場の外で生きるには、あまりにもヒツジの身体は弱く、真っ白で美しかった毛も汚れて、私は真っ黒いヒツジになっていた。
もう群れに戻ることは出来ない。
もうヒツジ飼いはヒツジとしての価値の無い私なんていらないだろう。
ヒツジ飼いはきっと、ヒツジとして産み落とした私を、ヒツジらしく生かすことが私にとって最もな幸福だと考えただろう。
だがヤギを知ってしまった私は、もうヒツジとして生かされ続けることに喜びを感じられない。
自分と同じ草食でありながら、群れずに1匹で生きている。
ヒツジよりも圧倒的に賢くかっこよく、逞しく美しい種を知ってしまった私は、自分の存在意義を疑ってしまった。
"ヤギのようになりたい"
これはヒツジとして刷り込まれたのではなく、私が、一個体として初めて望んだことだ。
ヒツジとして生まれた私が、ヒツジらしく生きることを辞めた、その後の自伝を書いてみよう。
私はこのまま旅を続けて、どんな姿で死を迎えるのだろうか…?
- - - - - - - - - - - - - - - - - ✄
私はカバートアグレッション(Covered aggression)の母のもと生まれ、母の持ち物として大切に管理されて育ってきた。
そんな私が14歳の時初めて付き合った男の子は、自分と大差無い年齢で、"自分の人生"を自分で選んで生きていた。
"母の望みを叶えること"だけが"自分の人生"なのだと思っていた私にとって、彼との出会いは衝撃的だった。
彼は自分で稼いだお金で食事をし、友達と遊び、私と同じ習い事をしていた。
そして経済的な自立はもちろんだが、心の自立というものを私に教えてくれた。
心の自立というのは、"自分自身の気持ちや思ったことを認め、それに責任を持つ"ということだ。
私が塾帰りに彼と遊んでる最中に、親から説教の電話がかかってきたことがあった。
彼は私のスマホを取って、見ず知らずの私の親に物申してくれたのだ。
他人の親の電話に出るのが怖くなかったのかと聞くと
「全く怖く無い、思ったことを伝えただけだ」
と言った。
他人の親に物申せるほどの自分の気持ちへの自信、行動に移す度胸というのは、本当にかっこ良くて胸打たれたのを覚えている。
私は彼のように、心が自立した人間になりたいと思った。
私は母の望みで入学した中学校を辞め、その後入った高校も中退し、16歳で働き始めた。
現在22歳になる私は、しがない絵描きである。
いや、絵描きとして食べていけていない以上、ただのフリーターである。
どこで選択を誤ってしまったのか、思い返せばいくらでも反省するべき点はあった。
周りに堕落したなどと言われても仕方が無いだろう。
だが、私自身は自分のしてきた選択に後悔はしていない。
楽に生きることを良しとするのなら、自ら牧場の外に出ることはしなかっただろう。
"全てを自分で選び行動することで、自分の気持ちに責任を持つ"
これは私の人生のポリシーなのである。