ヒツジちゃんのぼやき
叔母の顔が思い出せない
私は14歳の時、自殺を図って2階の自室から飛び降りたことがある。
正確には、私に"自殺を図らせた"として、当時の担任教師を陥れるために飛び降りたことがある。
2階から飛び降りたくらいで死ねるわけが無いことは、14歳の私でも重々承知だった。
生きて担任教師の苦しむ姿を見たかったのである。
それほど大嫌いだった担任教師の話はまた今度しよう。
ここで話したいのは、自殺未遂?を図った後にあった叔母との出来事である。
私の実家の隣には同い年の従姉妹の家があり、庭が繋がっている。
幼い頃からよく従姉妹の家に上がっては遊んでいた。
お互い中学生になり別々の中学に通うようになるも、私は月に一度は従姉妹の家に上がって従姉妹と会話をしていた。
自殺未遂から数日後、私は従姉妹といつものようにたわいの無い会話をしていると、
ふと従姉妹の家の窓から、私の自室と、飛び降りた先にあった畑が目に写ったのだ。
私は従姉妹に、2階から飛び降りたが骨一本折れなかったことを話してしまった。
「え、それ本当?」
動揺する従姉妹。
「本当なんだよねこれが〜」
私は自室を眺めながら答えた。
「…」
話を聞いていた叔母が私のもとにかけ寄ってきて、私の肩をガシッと掴んで揺さぶりながらこう言った
「世界には生きたくても生きられない貧しい子どもが沢山いるんだよ?命を軽く扱わないで」と。
世界にいる生きたくても生きられない子ども?
確かに貧しい子供達と比べれば私はさぞ恵まれていて、幸せに生きているように見えるだろう。
ただ、私は日本で生まれ、有難いことに当たり前に食べることも学ぶことも出来る環境に身を置いているけれど、
自分のことを両手放しで幸せだとは思えないし、自殺を悩むくらいには生き辛かったのだ。
世界の貧しい子ども達に比べれば幸福に必要な条件が上というだけで、自分よりも低い条件で悩みを抱える子ども達を見て、"あの子達より私は幸せだ"と納得出来るほど単純では無かった。
叔母は教師をしているせいか、もともと謎のバイブルを押し付けてくることがある。
だがこの時の叔母の発言は、あまりにもお門違いだったことは間違い無いだろう。
咄嗟に私は叔母に苦笑いして返した。
「あはは…」
この時私の出来る最強のリアクションは、泣くことだったはずだ。
涙は子供としての最強の受動攻撃である。
子供というのは大した理由も無く涙を流すことが許されている。
子供が自分の感情に素直な生き物である証拠だ。
涙を流すことで、大人達に"目の前にいる子供を泣かせてしまった"という罪悪感を植え付けてやればいい。
叔母の言葉を聞いた時、私は涙が全く出てこなかった。
涙を流せない自分に絶望した。
"まだ自分は子供だ、まだ自分はいざとなれば感情を露わに出来る"と思っていた。
だが、とっくに自分の感情を人に見せる事など出来なくなっていたのだ。
母からどう見られるか、他人からどう見られるか、というのに重きを置いて生きてきた成果である。
私はとても立派なヒツジだったのだ。
従姉妹の家で自殺未遂の話をしたのは、きっと私の内面を自己開示しようとしていたからだ。
だが、叔母は私を知ろうとはしてくれなかった。
こうやってどんどん自己開示が苦手になり、外交的に人と関わることが無駄に上手になって
"人当たりがいいね"なんて褒められる度に、内向的な自分とのギャップに苦しんで生きてきた。
私は何度叔母の顔を思い浮かべても、14歳の時ままで記憶が止まっていることに気が付いた。
実家にはよく帰ってきているし、少なくとも3ヶ月に1度は叔母と顔を合わせているが、私の脳内では何故か叔母の顔だけが更新されない。
おめでとう、一生老けないじゃん?笑
私はあの時きっと、脳内で叔母を殺した。
死んだことにしないと、自分が死んでしまう気がした。
正確には、私に"自殺を図らせた"として、当時の担任教師を陥れるために飛び降りたことがある。
2階から飛び降りたくらいで死ねるわけが無いことは、14歳の私でも重々承知だった。
生きて担任教師の苦しむ姿を見たかったのである。
それほど大嫌いだった担任教師の話はまた今度しよう。
ここで話したいのは、自殺未遂?を図った後にあった叔母との出来事である。
私の実家の隣には同い年の従姉妹の家があり、庭が繋がっている。
幼い頃からよく従姉妹の家に上がっては遊んでいた。
お互い中学生になり別々の中学に通うようになるも、私は月に一度は従姉妹の家に上がって従姉妹と会話をしていた。
自殺未遂から数日後、私は従姉妹といつものようにたわいの無い会話をしていると、
ふと従姉妹の家の窓から、私の自室と、飛び降りた先にあった畑が目に写ったのだ。
私は従姉妹に、2階から飛び降りたが骨一本折れなかったことを話してしまった。
「え、それ本当?」
動揺する従姉妹。
「本当なんだよねこれが〜」
私は自室を眺めながら答えた。
「…」
話を聞いていた叔母が私のもとにかけ寄ってきて、私の肩をガシッと掴んで揺さぶりながらこう言った
「世界には生きたくても生きられない貧しい子どもが沢山いるんだよ?命を軽く扱わないで」と。
世界にいる生きたくても生きられない子ども?
確かに貧しい子供達と比べれば私はさぞ恵まれていて、幸せに生きているように見えるだろう。
ただ、私は日本で生まれ、有難いことに当たり前に食べることも学ぶことも出来る環境に身を置いているけれど、
自分のことを両手放しで幸せだとは思えないし、自殺を悩むくらいには生き辛かったのだ。
世界の貧しい子ども達に比べれば幸福に必要な条件が上というだけで、自分よりも低い条件で悩みを抱える子ども達を見て、"あの子達より私は幸せだ"と納得出来るほど単純では無かった。
叔母は教師をしているせいか、もともと謎のバイブルを押し付けてくることがある。
だがこの時の叔母の発言は、あまりにもお門違いだったことは間違い無いだろう。
咄嗟に私は叔母に苦笑いして返した。
「あはは…」
この時私の出来る最強のリアクションは、泣くことだったはずだ。
涙は子供としての最強の受動攻撃である。
子供というのは大した理由も無く涙を流すことが許されている。
子供が自分の感情に素直な生き物である証拠だ。
涙を流すことで、大人達に"目の前にいる子供を泣かせてしまった"という罪悪感を植え付けてやればいい。
叔母の言葉を聞いた時、私は涙が全く出てこなかった。
涙を流せない自分に絶望した。
"まだ自分は子供だ、まだ自分はいざとなれば感情を露わに出来る"と思っていた。
だが、とっくに自分の感情を人に見せる事など出来なくなっていたのだ。
母からどう見られるか、他人からどう見られるか、というのに重きを置いて生きてきた成果である。
私はとても立派なヒツジだったのだ。
従姉妹の家で自殺未遂の話をしたのは、きっと私の内面を自己開示しようとしていたからだ。
だが、叔母は私を知ろうとはしてくれなかった。
こうやってどんどん自己開示が苦手になり、外交的に人と関わることが無駄に上手になって
"人当たりがいいね"なんて褒められる度に、内向的な自分とのギャップに苦しんで生きてきた。
私は何度叔母の顔を思い浮かべても、14歳の時ままで記憶が止まっていることに気が付いた。
実家にはよく帰ってきているし、少なくとも3ヶ月に1度は叔母と顔を合わせているが、私の脳内では何故か叔母の顔だけが更新されない。
おめでとう、一生老けないじゃん?笑
私はあの時きっと、脳内で叔母を殺した。
死んだことにしないと、自分が死んでしまう気がした。