青春は、数学に染まる。 - Second -



離任式の前日。


夜遅くに早川先生から呼び出された。
しかも…その場所は学校だった。


「…真帆さん」
「先生…」


学校の校門付近で立っていると、スーツを着た先生が歩いて来た。


「こんな夜にどうしたのですか」
「遠い上にこんな遅い時間に呼び出して申し訳ございません。実は今まで職員室の整理をしておりました。…現在、ここには僕らしかいません。…最後に、探検しませんか…と思いまして」

探検。
先生から出てきた意外な言葉に、喜びを感じた。


「探検します」
「ありがとうございます。桜川高校教師としての、最後の職権乱用です」
「ふふ、悪い人ですね」


差し出された先生の手を優しく握る。


校門から堂々と手を繋いで、昇降口に向かった。






夜の学校。
電気を付けず、先生が持っているスマホのライト1つで校内を歩き回る。

手を繋いだまま、堂々と。


「夜で誰もいないとは言え、校内で手を繋いで歩くなんてドキドキします」
「そうですね。けれど、こんなことは人生最初で最後です」




先生と同じ学校で『先生と生徒』として居られる人生に、急にピリオドを打たれたあの日。

その日から当たり前だと思っていた日常が急に色付き、私の中で特別なものへと変わって行った。



「…伊東先生の件の時、もしバレたら困るから校内では触れないようにしましょうってお話したではありませんか」
「はい…しましたね」
「僕ら、それを守れていましたか?」
「…ふふ、聞かずともご自身が一番身に覚えがあるでしょう」
「………真帆さんも意地悪になりましたね」
「裕哉さん程ではありません」



学校で触れるのは最後にします、とか言っていた。


そう言いながら、触れずに耐えていたのは新学期の最初だけで、いつの間にかそんなこと忘れていたよね。


私も、先生も。



「本当に、バレなかったのが奇跡です」
「……いや、浅野先生にはバレましたけどね」
「あれは……そうですね。僕が悪かったです」
「反省してくださいよ」
「…反省はしません。むしろ今は、あの時に見せ付けられて良かったと思っております」
「開き直らないで下さい…」



電気の付いていない職員室前の廊下を歩く。
窓の外に目を向けると、街がキラキラと輝きを放っているのが目に入る。


「そういえば、2回ほど一緒に夜景を見ましたね。真帆さん、覚えていますか」
「…勿論覚えています。1回目は思いを伝えた時でした」
「そうです。2回目は僕が伊東先生に怪我させられた時ですね」
「はい…」

立ち止まって夜景を眺める。

「僕はここからの夜景が好きです。真帆さんに出会う前から、いつもここで夜景を見ておりました」
「………」
「その夜景も、真帆さんと見るといつもより綺麗に見えたものです。それは、今も変わりません」

先生がここで過ごした5年間のうち、2年しか関わっていないけれど…それでも先生の中でそんな思い出があるなんて、これ程光栄なことはない。


「遠くにグラウンドの照明が付いているのが見えますか?」
「はい」
「あれが桜川工業高校です。明るいと校舎まで見えますので、今度見てみて下さい」
「……」

遠いようで遠くない距離。
微妙な距離感に胸がざわつく。

「こんな遅くまで部活しているのですかね」
「いえ、地域サークルだと思いますよ。流石に部活はアウトです」



再び先生と手を繋ぎ歩き始める。


どこを歩いても蘇ってくるのは先生との思い出ばかり。




「先生。明日、クラスでの終礼が終わったあと…数学科準備室に集合です」
「…はい、分かりました」
「最後の活動です」
「…そうですね」


自分で最後って言いながら、その言葉に悲しくなる。


私、4月から大丈夫なのか?



「そうだ、真帆さん」
「はい」
「来週の土日どちらかでお買い物に行きましょう」
「え?」

唐突な提案に目が開いた。

「突然ですね」
「いや…僕、転任が決まってから考えていたのですけど。前に見たペアリングを買いに行きましょう」
「……」
「そのリングと共に、着任式に臨みます」


その言葉に涙が溢れて出てきた。


私の在学中は目立ちたくないから、卒業したらリングを…という話をした。

多分この発言はそこからきているのだろう。


私自身、その話が本気だとは思っていなかったのに。
先生は…本気だったんだ。



「リングを着けられない人は、ネックレスにするらしいです。ここの制服は首元が多少隠れますので、紐部分を長くすれば身に着けていてもバレないと思います」
「え、冬のセーラー服は厳しいと思いますが…」
「いや、いけると思います」


…教師有るまじき発言。

先生の口からそんな提案が出てきたことに驚いたが、同時に嬉しさも感じる。


「先生、ネックレスにしてまで身に着けて欲しいのですか?」
「……………だったらなんですか。何か悪いですか」
「何で喧嘩腰なの!?」

唇を軽く噛み、私の肩に腕を回して抱き寄せてくれた。
その腕は心なしか震えているように感じる。

「…浅野先生と神崎くんがいるこの場所に、貴女だけを残して去らなければならない僕のこの気持ちが分かりますか」
「……残念ながら、分かりません。先生こそ、残される側の気持ちが分かりますか」
「そうですね…。分かりません」
「お互い様です」



いつも近くにいたのに不安だった。
不安で、何度も思いをぶつけあった。


それなのに、自分は目の届かない場所に行かなければならない。
見えないからこそ、不安になってしまう…そんな先生の気持ちが本当は少しだけ分かっていた。


何も見えなければ「知らなくて良いこと」を「知らないまま」で済むのかもしれない。
けれど、ずっと見えていたものが見えなくなってしまう先生は、逆に沢山のことを悩み始めるのだろう…。


そしてリングは、その不安な気持ちを支える手段としての提案だと…。

先生から詳しく聞かなくても、そのくらい私には分かっている。




「リング良いと思います。私も身に着けていたいです。是非…買いに行きましょう。新年度から身に着けます」
「…ありがとうございます。楽しみが増えました。転任先でも頑張れそうです」


そう言って私を抱き上げる。
子供みたいに嬉しそうな表情をしている先生。




「真帆さん、泣かないで…笑って下さい」




その言葉の通り、泣きながらぎこちなく笑顔を浮かべてみる。



同じ目線になった私たちは、どちらともなく唇を重ねた。







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