三つの失恋と三つの飲み物。

1 ほろ苦い夜と悪くない朝

 それは金曜日の夜の出来事。
「振られた。泊めて」
 玄関の扉が開いた途端に私が言うと、友人は黒々とした目を瞬きもせず即答した。
「いいぞ。入れ」
 そうして私はおよそ一年ぶりに友人のアパートに足を踏み入れた。
 塵一つ落ちていない畳にモノトーンの家具。整頓されてどこもきちんと収まっている棚の上には小さな観葉植物が置かれている。
 大学の頃は自分のアパートよりこちらに入り浸ったものだ。何かとごっちゃな私のアパートより、こちらの方が落ち着いたものだから。
 こたつに足を突っ込んで、私は憮然と言った。
「お腹空いた。何か食べさせて」
「おう」
 友人は頷いてキッチンに向かう。
 時刻は既に夜十二時を回っている。しかし私は空腹で眠るどころじゃなかった。
 久しぶりに見る友人の骨ばった背中を眺めながら、コタツのテーブルに顎をついて待つ。
 まもなく友人はレバニラにもやしのスープ、ご飯を山盛りにして持ってきた。
 さすが四年の付き合いだけあってよくわかっている。私には質より量、色気より食気ということを。
 私は出された食事をがつがつと無言で平らげる。隣の友人はそれを無言で見ていた。食べている時の私には何を言っても無駄だということを、友人はこれまた長年の付き合いで熟知している。
 私は手を合わせてお礼を言う。
「おいしかった。じゃあ寝る」
「ん」
 私は金曜の夜は翌日会社に行く必要もないので風呂に入らない。学生の頃からそうだったので、今更友人は何も言わない。
 几帳面で何もかも丁寧な友人だが、適当でずぼらな私にケチ一つつけたことはない。なんでも、私くらいいい加減だと文句をつけるのも面倒なのだそうだ。
 さすがに食器の片付けだけはしていると、友人はさっさと客用布団を敷いていた。
 友人は既に風呂を終えたパジャマ姿だったので、歯だけ磨いてくると自分のベッドに潜り込んだ。私もその横で客用布団に包まる。
 ぱちっと電気を消したら、しばらく静寂が訪れた。
 その静寂を破ったのは私の方だった。
「学生時代以来ね」
「自分はまだ学生だけど」
「ああ、そうだっけ」
 友人は大学院に通いながら研究者を目指している。真面目でコツコツと勉強するのが好きな友人にはぴったりだと思う。
 私は暗がりを見ながら言葉を続ける。
「どうなの、景気は」
「院生に景気は関係ない。そっちは?」
「こっちですかー。こっちは大変ですよ。もう寝る暇もないくらい」
「なるほど。ブルーレイを見るのに忙しくて?」
「うるさい」
 適当な話をしながら、暗闇に笑い返す。
 大学の頃はよくこうして友人の家に泊まったものだ。就職してからは家が離れたからそう簡単に来ることはできなくなったけど、お互いまだ続いている。
 寝返りを打って、私は友人の方を見ながら言う。
「そういえばさー」
「寝る気ないだろ」
「だめですか」
「全然」
「じゃあ付き合ってよ」
「了解」
 そんな感じで、たぶん二時間くらいは他愛ないことを話していたと思う。
 ふいに会話が切れて、少しの間沈黙が流れた後だった。
 私はそっと問いかける。
「寝た?」
 それに、友人は静かに返してきた。
「どこを好きになったんだ?」
 予想していなかった質問に、私は考える。
 友人は順々に予想をつけてくる。
「顔? 性格? 地位?」
 態度、言葉、なりゆき……というように、要素を挙げていく友人に、私はぽつりと呟いた。
「香りかな」
 眼前の柔らかな闇に、私は目を細めた。
「いい匂いがしたの。私が一番好きな匂い」
 その香りを思い出そうと目を閉じる。
 徐々に緩やかな眠りが私を包み込んで、私はそれに自分を放っていった。




 入社して半年くらい経った頃だったと思う。
 上司や同僚と話すのに慣れた。仕事もうまくはいかないけど何とかこなせるようになってきた。パソコンやデスクも手に馴染んできた。
 それなのにどこか寂しかった。たまらなく学生時代が懐かしかった。
 帰りたい。けれど、どこへ?
 学生時代の自分のアパート、実家、大学を頭に描いて、なんとなく違うと首を横に振った。
 どこも卒業したはずだ。十分に青春時代を楽しんで、納得して出てきたと思っていた。
 頭では理解しているのに、心の奥が凍っていた。
 そんな時、あの人は声をかけてきた。
 いつもやり取りする、先輩の男性だった。私はいつものように、我ながら無愛想に振り向いた。
 そこで、あの香りがした。
 少し苦くて香ばしい、独特でありながら優しい香り。
 私はその正体がわからないまま、彼に恋をした。
 私は青春時代にずっとこの香りに包まれていたなと、幸せに似た感情を抱きながら。





 翌朝目覚めると、そこは私の学生時代の空間だった。
「え?」
 時が戻るはずはない。だけど夢を見ている気分でもない。
 布団から頭を出して辺りを見回している私の枕元に、友人が座って声をかける。
「おはよう」
「あのさ」
 私が何か言おうとすると、友人は両手に一つずつ持っていたカップを軽く掲げて見せる。
「恋した香りって、これのことだろ?」
「……うん」
 確かに今部屋に満ちている香りは、私が一番好きな匂いだ。
「コーヒーじゃん?」
 体を起してカップを覗き込むと、友人は頷く。
「うん」
「何か入ってるの、これ」
「いや、スーパーで特売になってた普通のインスタントコーヒー。ただし大学の間からずっと買ってた」
「なんで私がこの匂いを一番好きって知ってるの?」
 私自身だってわからなかったのに。そう思って問うと、友人はくすっと笑った。
「わからないはずないだろ」
 説明も何もなかったけど、私はすとんと納得した。
 友人とは大学四年間、呆れるほど一緒にいた。直情型の私と沈着冷静な友人は正反対だったけど、誰より気が合った。
「そっか。ただのコーヒーじゃなかったんだ」
 コーヒーくらい何度でも飲んだことがある。それなのにこの香りと結びつかなかったのは、香りに多層性があることを知らなかったから。
 コーヒーにこの部屋の匂いと、そして目の前の友人という存在が重なって、初めて私の大好きな香りだった。
「失恋おめでとう。一つ大人になったね」
 残念だったねなどとは言わないのがこの友人だ。なぜって、私がそういう半端な慰めが大嫌いなことを知っているから。
「なに、落ち込むことなんて何もない。いくら失恋しようと人生に敗れようと、君はまた立ち向かう。青春時代と変わりなく、ね」
 そして私が一番欲しがっている言葉をさらりと口にできる、唯一の人。
「……ぷっ」
 私は噴き出して、学生時代と少しも変わらない友人に頷いた。
「だからあなたのこと大好きなの」
 カップを手渡されたので、私はそれを軽く掲げて友人とカップを合わせる。
 カーテンから淡い朝日が漏れるいつもの空間で、私はコーヒーに口をつけて笑った。
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