三つの失恋と三つの飲み物。

2 甘くはない関係と優しい約束

 この気持ち、ただの若さだなんて言わせない。
「僕とお付き合いしてください」
 早退して買ってきた花束を持って、退社するところの伊藤さんをつかまえた。
 赤いバラやピンクのチューリップに白ユリ、ありったけの豪華な花束の向こうで、伊藤さんは目を丸くする。
 もちろん僕には、そんな花束より伊藤さんの方がずっと眩しい。
 伊藤さんはうろたえながら何か言おうとする。
「あの……」
「罰ゲームじゃありません。冗談でもないんです。本気で、僕とお付き合いしてほしいんです」
 春の夜更け、帰宅するサラリーマンやOLたちのざわめきが風に乗って運ばれてくる。
 僕は誰に知られても構わないが、伊藤さんの方は気まずいかもしれないと思って人気のないところを選んだ。
 伊藤さんは戸惑った表情で僕を見上げている。何か言いたげで、けれどどう言っていいかわからないという様子だ。
 その反応は予想できていた。だから僕はほどなくして告げる。
「すぐ返答して頂かなくて結構です。今日はもう帰って休んでください」
 丁寧に礼をして、僕は笑いかけた。
「いつまででもお返事をお待ちしています」
 そう言って、僕と伊藤さんはそれぞれの帰路についた。



 僕は社会に出てすぐに今の会社に入って、三年になる。
 そして伊藤さんは同じ会社に入社して三十年。僕と伊藤さんには親子ほどの年の差がある。
 僕は独身だし、伊藤さんもバツイチとはいえ独身だから、お互い問題なく付き合える。そう断言するには、僕らの間に横たわる年齢の問題は意外と大きい。
 だけどそれを踏み越えても伊藤さんに交際を申し込みたい理由が僕にはあった。
 翌日、営業に駆け回る合間に少しだけ帰社した午後三時。
「どうぞ」
 目の前に紅茶の入ったカップが置かれて、僕は顔を上げる。
 座ったまま見上げると、伊藤さんだった。僕はぽつりと言葉を返す。
「……今日は淹れてもらえないかと思ってました」
「おや」
 思わずつぶやくと、伊藤さんはころころと笑う。
「そんな意地悪しませんよ」
 僕は真っ赤になってうつむいた。伊藤さんならそうだろうと思っていた。
 僕はもぞもぞと下を向きながら言う。
「笑ってくれてもいいです。紅茶を淹れてくれるあなたが、僕は好きなんです」
 僕は今でこそ営業でトップの成績を上げているが、入社したての頃は最低水準を更新し続けていた。しかもちょうど経営が厳しいこともあって、みんなピリピリしていた。
 僕は職場でいないように扱われていた。いつも定時になると全員に淹れられるお茶が、僕の前にだけなかった。
 僕はそのときを思い出しながら言う。
「あなたが僕にお茶を淹れてくれて、本当に嬉しかった」
 そのつらいとき、僕の前に差し出されたのは一杯の紅茶。
 この会社ではお茶を淹れるのは当番制になっていて、伊藤さんはそのとき当番じゃなかった。だけど伊藤さんは僕にお茶を淹れてくれた。
 そんなことをしたら伊藤さんが皆に白い目で見られてしまう。実際、次の日には伊藤さんの前にもお茶がなくなっていた。
 けれど毎日、伊藤さんの手で僕のところに午後のお茶が届けられる。
「あなたに元気を出してほしかっただけですよ」
 伊藤さんは柔らかく笑って、言葉を続けた。
「あなたこそ笑ってくれていいと思います。年甲斐もなくあなたを構っていると思われても仕方ないのですから」
 僕は首を横に振って、紅茶に口をつけた。
 伊藤さんの淹れる紅茶はいつも香りと甘みが心地いい。その後営業成績を伸ばして女の子たちがこぞって僕にお茶を淹れてくれるようになったが、伊藤さんの紅茶に敵うものはなかった。
 いずれも会社でまとめ買いされている同じ紅茶なのに、どうしてそんなに違ったのか。もう今はその理由がわかっている。
 伊藤さんは優しく言葉を切り出す。
「昨日のお返事をしてもいいですか」
「はい」
「あなたとはお付き合いできません。あなたのことは、我が子のように思っているんです」
 それはまぎれもなく断りの言葉だったが、僕はその言葉ににじむ温かみを感じていた。
「だけどまだ、あなたにお茶を淹れていてもいいですか」
 湯気と香りがふわりと舞い上がって、僕の中に溶けていく。
 ああ、伊藤さんが好きだなと改めて思った。
「あなたの一日をもう少しだけ応援していたいので」
 辛かったり、疲れたり、一日の真ん中というのは憂いの多い時間。けれどその時間を乗り越えなければいけない。
 温かさと優しさとちょっぴりの甘さ。
 伊藤さんのかけたアフタヌーンティーの魔法に背中を押されて、僕は今日も午後の時に立ち向かう。
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