ようこそ、片桐社長のまかないさん

15 片桐社長のまかないさん

「ご無沙汰しております。高坂(こうさか)社長」

航さんがそう頭を下げると、光沢のある細身のスーツを着た男性は豪華なデスクから立ち上がり、こちらに近づいてくる。

「いやいや、本当にご無沙汰。またこんな年の瀬にどうしました? 片桐君」

「大変お忙しい日に申し訳ありません。早急にお話ししておきたいことがあり参りました。お時間をいただき感謝いたします」

航さんはまるで別人のようなビジネスライクな喋り方で、二十以上年上であろう社長に相対した。

「今日はね、仕事はないんだけど結局出社しなくちゃいけなくってね。暇だったからいいのいいの。座って座って」

まさか社長室に直行するとは思わず、私は航さんの一歩後ろで固まっていた。社長と直接話したことはもちろんなく、社長室に入るのも初めてだった。

近くで見ると、社長は思ったより柔和な物腰で、顔の皺は深いけれど優しげな印象だ。

重厚感のある応接用ソファーへ私も促され座った。

「なになに、結婚報告とか?」

航さんの正面に座った高坂社長は指を組んで口元に当てると、私の方を見てニッコリと微笑んだ。

「社長、彼女は最近までこちらの営業部にいた杉崎凛です」

航さんに紹介され、私は深々と頭を下げた。

「ああ、見たことのある女性だなとは思ってましたが、そうでしたか」

社長は表情をピクリとも動かさずにそう答えた。

「実は仕事を辞める前、彼女は社内で嫌がらせを受けていました」

「嫌がらせ?」

社長は少しだけ眉をピクつかせ、航さんに向き直る。

「その嫌がらせが彼女の同期にも及んだため、責任を感じた彼女はこちらを退社しました。しかし彼女への嫌がらせは終わらなかった。なぜだと思われますか?」

「なぜでしょう」

「社内に彼女のストーカーが居たからです」

社長は柔和に笑わせていた顔を突然凄ませ、「誰です?」と低い声で言った。

航さんはビジネスバッグから取り出した『品川リサーチ社』の封筒を応接テーブルに差出し、社長はそれを受け取った。

「……これは。人事の原田君ですか」

社長は取り出したファイルを開いて紙をパラパラと捲り眺め、そうつぶやいた。

「はい。それは私が一ヶ月ほど前に都内で頼んだ興信所の人間がまとめたものです」

いつの間に、と私は隣の航さんを見た。航さんはチラリと私を見て口角を上げた。

「……決定的な証拠はあるんですか?」

高坂社長はファイルから鋭い目だけを覗かせて訊いた。

「もちろんです。彼女が受けた嫌がらせは社内で使用していたメールアドレスにも残っていますし、自宅で受けたストーカー被害の証拠は彼女自身が残しています。そして、原田は今彼女を追いかけて、私の地元にいます。彼女を執拗に探している証拠もここに」

航さんはポケットから写真と小型のレコーダーのようなものを取り出してテーブルに置いた。

「これは?」

「先日、私が原田と接触した際に録音した音声と、社内での隠し撮りを片手に彼女を探す原田の写真です」

接触した? と私は耳を疑い、目を見開いて航さんを見た。

「……杉崎さんと君の関係は?」

「昔からの知り合いです。今は交際関係にあります」

昔から?

私は航さんをじっと見る。航さんは社長を真っ直ぐに見ていた。

昔から?

今、この状況で航さんが社長にわざわざ嘘を吐いたとは思えない。交際関係にある、だけで充分なはずだ。

昔から?

私は頭の中をぐるぐるとかき混ぜた。なにか、ずっとどこかで引っ掛かっていたものがふわりと浮かび上がってくる。

(……おきな君?)

いや、違う。おきな君は遠くから遊びに来ていると言っていた。いや、でも……。

「それで、君はどうするつもりでここに?」

少しの沈黙の後に、社長はそう訊いた。すると航さんは固く結んでいた唇を緩めて不敵に笑った。

「本来であれば、警察に行くべきでしょう。けれど、住居侵入で逮捕されるかもしれませんが、まあ不起訴処分で終わるでしょう。他にもストーカー規制法に引っ掛かるとは思いますが、近寄らないという約束をさせたところで何の抑止力にもならない」

社長はファイルをテーブルに置き、俯いたまま腕を組んで聴いている。

「……ここからがご相談です。ときに、高坂社長はもう一つ会社をお持ちでしたね?」

航さんの不敵な笑みをじろりと射抜くように見てから、社長はふっと笑った。

「飛ばしてくれ、と」

「ええ」と、航さんは頷いた。

社長は再び俯いて何かを考えているようだ。私は話のテンポが早すぎて全くついて行けない。

……高坂社長のもう一つの会社とは、会長を務めているという宝石会社のことだろうか。

ごくたまに、そちらの会社に出向し海外転勤になる人がいた。もしかして……。

「南アフリカとボツワナでしたか?」

航さんはとても感じの良い笑顔でそう言った。逆に怖い。横から見ている私は驚きすぎて声も出ない。

「……分かりました。社内でのストーカー行為を見逃した私に責任がある。年明け直ぐに出向させましょう。私が責任を持って帰国はさせないと約束する」

「ありがとうございます。高坂社長ならそのようにご判断下さると信じていました」

航さんは強気な姿勢は崩さないまま、チラリとこちらを見て目を細めた。私は口をぽかんと開けたまま航さんと社長を交互に眺める。

「杉崎さん、すみませんでした。まさか社内でそんなことが起きていようとは。退職したとのことですが、今はどのように生活を?」

社長は今度は私を真っ直ぐと見てそう訊いた。

「今は片桐さんの会社でお世話になっています」

慌ててそう答えた。

「そうでしたか。原田はもうこちらには出社させず、すぐにボツワナに転勤させます。もしも杉崎さんさえ良かったら、再雇用させていただきたい」

社長はそう言うと頭を下げた。私は困り果てて航さんを見る。航さんは一瞬眉を困らせてから、私を見た。

目が合う。航さんはゆっくり微笑んだ。

「お前が決めればいい」

航さんはそう言って私の頭をポンと撫でた。

……ヴィバリューに、戻る?

考えたこともなかった。原田さんが国外に出されるなら、あの町に避難している理由もなくなる。

嫌がらせは原田さんだけでなく、おそらく私が敵に回してきた何人かがしていたはずだ。

けれど同期に及んでいた嫌がらせは、おそらく今社長の耳に入ったことで再び起こりはしないだろう。

それさえクリアされれば、私はどんな目で見られようがまた下らない嫌がらせを受けようが構わない。

逃げ出した場所で、やり直せる。そのチャンスを航さんがくれた? 原田さんの問題を解決するだけでなく……。

私はパンツのセンタープレスがぐちゃぐちゃになるほどに握りしめた。

……だけど。

「高坂社長。とてもありがたいお話、痛み入ります」

真っ直ぐ前を見る。私がこれから生きて行きたい場所は。

「私は今、片桐さんの賄をしています。今はそれが生きがいです。失いたくありません」

航さんは隣で私をじっと見て、少しだけ泣きそうな顔をしているのが視界に入った。

「これからも、あの港町で賄を続けます。こちらには戻りません」

すると社長はハハハッと楽しげに笑った。

「だ、そうですよ、片桐君。良かったね」

「……恐れ入ります」

航さんはまた不敵の笑みに戻ってそう返した。

「分かりました。では、原田の出向だけは私が全責任を持ちます。彼の渡航状況は秘書から逐一連絡させるとお約束しましょう」

もちろん、社内で始まったストーカー被害ということもあって警察沙汰にされては困るという高坂社長の思惑もあるのは分かる。

それでも高坂社長が思っていたよりもずっと情に熱い人だということに驚いた。

こうなることが分かっていたのかどうなのか、航さんは満足そうに社長に頭を下げていた。



私は東京タワーを窓から臨めるホテルの最上階に居た。

「なにもこんなに高そうな部屋に泊まらなくても……」

折角の絶景とスイートとその部屋で頂く絶品コース料理を前に可愛げのないことを言う。

「ここしか空いてなかったんだって。たまにはいいだろ」

航さんはクロスの敷かれたテーブルに頬杖をついてご機嫌にそう言った。

どうも私は贅沢に向いていないようだ。航さんがそのお金を稼ぐのに要した労力と、私が一瞬で消費してしまう贅沢なんてまったくつり合いが取れないと思えてとても楽しめない。

私はやはり自分で稼ぎたい人間なのだと自覚せざるをえない。

「……なにか、航さんの仕事で私に手伝えることはない?」

ナイフで懸命に切っていた鴨肉を見つめながら、私は向かい合う航さんにポツリとそう訊いた。

賄も立派な仕事だと自負している。楽しくはあっても決して楽ではない。

けれどどこかで、女将さんが賃金を対価とせず主婦として務めてきた仕事であることが引っ掛かっていた。その女将さんのお手伝いをしている現状で、東京にいた頃よりも高給をいただいていることに私自身が納得できていないのだ。

「凛にしてほしい仕事なんて、山ほどある」

航さんは八重歯を覗かせて笑うとそう言って、ワインをぐびっと飲んだ。

「帰ったら女将を交えて話そう。三日の夜にでも」

「うん……」と私は小さく切った鴨を口に運んだ。

高坂社長との話し合いが終わり車に戻ると、航さんは三箇日が終わるまではこのホテルで過ごすと言い出した。

原田さんの年明けの出社が一月四日だと聞いた為、それまでは鉢合わせないよう東京に残っていた方が良いとの判断だそうだ。

山薙さんも承知だったようで、私たちをホテルに送り届けるとそのままご実家のある箱根へ帰省するとのことで別れた。

「それにしても、高坂社長に直談判するなんて思わなかった」

改めて落ち着いて、おそらくもうこれで原田さんに怯えずに生きて行けるだろうことにホッとしてそう言った。

「最初からそれしかないと思ってた。高坂社長は醜聞が一番嫌いだからな。あと、結婚後に奥さんがストーカー被害にあった経験がある。そういうことに関して潔癖なんだよ」

そこまで分かった上で今回の出向話を持ちかけたのかと、恐れ入った。

「東京の仕事に戻らなくて良かったのか?」

航さんは片頬を上げて意地悪な笑顔で言った。

「分かってるくせに」と私はため息を吐いた。

「航さん、ありがとう」

ナイフとフォークを構えた皿を見つめながら言った。なにか気恥ずかしくて、航さんを見られなかった。でも、やっとそう言えた。

「ただお前があの家に居て、うまい飯作って待っててくれて、夜は抱きしめて眠って、たまに一緒に風呂入ってっていう生活をこれからもずっとしたかっただけだよ」

顔を上げると、航さんは子どもみたいに笑っていた。ああ、この笑顔はやっぱり。

「おきな君……?」

私が呟くと、航さんは目を丸くして、それから「なにそれ」と笑って食事の続きを食べ始めた。

違うのだろうか。そうなのだろうか。

色々なことがあり過ぎて頭がついていかなかった。



「航さん、酔ってるでしょ」

ベッドに押し倒されてからもう10分以上、「凛大好き」と言いながらキスをしてはニコニコと私の顔を見つめる時間が続いていた。

「酔ってない」

私は可愛さと胸キュンに耐えきれずに覆いかぶさる航さんの身体から逃れようともがいた。

「ダメ、逃げたらダメ」

なんか語彙力も低下して可愛さがひとしおだった。この顔で可愛い時間、本当にどうにかしてほしい。

「凛、大好き」と目元にキスをする。

「もう、分かったから、お願い」

航さんを懸命に見つめ上げる。

「なに?」

「もう、触って。お願い」

すると航さんはとろけた表情を見せると唇にキスをしてくれて、ようやく私の身体に触れてくれた。

「凛、ずるいなそれ」

もう、早く触って欲しくて仕方がなかった。

そんなことをしている内に、いつの間にか年が明けていたようだった。



三箇日の最終日、夕方に片桐家に戻った。

ありがたいことに実家帰りの山薙さんが迎えに来てくれたのだった。

「お手数おかけします」と頭を下げると、「俺、こいつに弱み握られまくってるから仕方ないんだよ」と返された。

山薙さんと航さんの仲は良く分からないけれど、私には分からない絆のようなものがあるのは分かる。

玄関を入ると、玲奈さんが仁王立ちして待ち構えていてくれた。

「玲奈さん……ごめんなさい」

私は深々と頭を下げた。

「凛さん、私が家出した時、言ったよね。ご迷惑じゃなくご心配だって。そっくりそのまま返すよ」

玲奈さんは涙目になりながら唇を震わせていた。

「心配かけてごめんね、玲奈さん。玲奈さん、大好き」

私は玲奈さんを抱きしめると、震える小さな手で、玲奈さんも私の背中をぎゅっとしてくれた。

「どこにも行っちゃダメだよ。うちの賄さん兼、私のメイクアップドールでしょ?」

「えええ? 人形だったの? それは初耳だけど……うん、そうだよ。これからもお化粧たくさんしてね」

細くてか弱いけれどパワーあふれる玲奈さんを抱きしめながら航さんを振り返ると、ホッとしたようなため息を吐いて航さんは笑っていた。

「お帰りなさい、凛ちゃん。航も。落ち着いたら二人で私の部屋へいらっしゃい」

廊下の奥から現れた女将さんが、穏やかな声と表情でそう言った。私は「はい」とだけ答えて俯いた。女将さんにも会わせる顔がなかった。



女将さんの部屋で、航さんと並んで座布団に座り、女将さんと向かい合った。

航さんはストーカーの件がどのように解決したかを女将さんに話した。

「その男はいつ国外に出るの」と女将さんは表情を変えずに訊く。

「明日には出向を言い渡されて、早ければ明後日、遅くともその翌日には出国するよう手配が済んでいると連絡があった。原田は今回の件以外にもパワハラや個人情報の持ち出しなんかの問題を起こし社長に目を瞑ってもらっていたらしいから、無茶な人事異動にも異論を唱えることもないだろうと」

「その高坂社長は信用できるのね?」

「ああ。まだ若いから引退もずっと先だ。あと二十年は原田は帰国できない。どうしても一時帰国する時は先に一報をもらう約束になってる」

すると女将さんは張っていた胸からフーっと息を追い出して背を丸めた。

「良かった。ほんとに良かったね、凛ちゃん」

その、女将さんの一回り小さくなったような姿を見て、私は目頭が熱くなるのを止められなかった。

「女将さん、本当にごめんなさい」

ボロボロと零れる涙が、頭を下げたら畳に何粒も落っこちた。

私が落ち着くまで航さんは背中をさすってくれ、女将さんは良い匂いのするレースのハンカチを貸してくれた。

ややあって泣き止んだ私は、また女将さんにしっかりと向き合った。

「そしたら落ち着いて、綾乃さんの話をしようか」

女将さんはまた胸を張り直してそう言った。

「凛ちゃん、私はね。恩義を欠いては商いなんてできないって思ってるんだよ。航の父親……私の息子は商売には向いてない男だったけど、しっかりと恩を返せる男だったよ。確かに航は誰の力も必要とせずに、むしろ周りを巻き込んで事業を大きくしてるけどね。組合長に助けてもらったから今この会社があることも忘れちゃいけないと思ってるのよ」

「はい、分かります」

女将さんは無表情のまま私を真っ直ぐに見る。

「その航の父親が取り交わした結婚の約束を、こちらから無下にすることは許されないと、私はずっとそう思ってたのよ」

「会社を助けてくれたお礼に自分の息子を差し出すのが全うかどうかも考えてもらいたいけどな」

と航さんが腕を組んで茶々を入れる。

「ああ、それはね。あんたの好きな女の子が綾乃さんだってあんたの父親が勘違いしてたからよ」

航さんを横目に見ると、女将さんの言葉に表情を固めていた。

「なんの話だよ、それ」

「髪の長い、色白で綺麗な女の子をあんたが岩場で追いかけてるところを見たんだってさ。髪が長くて色白な子なんてこの辺にはいなかったからね。同じ小学校の綾乃さんだって思ったんだろうね」

航さんは何とも言えない微妙な表情で止まったまま女将さんの話を聞いて、それからふと目をそらしていた。

「私もそうなんだろうと思ってたんだよ。けどね。凛ちゃんが来て、勘違いだったんだって分かった」

女将さんが言わんとしていることが私には良く分からなかった。けれど、表情をほころばせる女将さんを見てると、不思議と変な緊張感が何処かへ行ってしまった。

「ああ、この子はずっと杉崎さんちの凛ちゃんが大好きなんだなぁと、あんたを見てると馬鹿みたいに伝わって来るよ」

女将さんは口元を手で隠しながらクスクスと笑って言った。私はポカンとしたままなぜかつられて笑った。

「凛ちゃん、航はね、凛ちゃんからはどう見えてるか分からないけど、昔から変わってて人と歩調が合わない人間なんだよ。航が無理に周波数を合わせにいかないと、相手と会話も成り立たない。けど凛ちゃんとは自然と歩調が合うみたいだね。航が凛ちゃんを好きだからそうなんだろうね」

「……私も航さんが大好きです」

女将さんのいつにない柔らかな口調に、私も体が緩んでそんなことを口にした。航さんは大きくこちらを振り返って、目が合う。面食らったような変な顔をしてて思わず笑ってしまった。

「凛ちゃん、ストーカーのことが片付くまで言えずにいたけどね、いつまでもここに居てくれると私も嬉しいよ。許嫁の件は、私から組合長に正式に謝りに行く。航の父親の勘違いでした、とね。振り回して悪かったね、航」

航さんはちょっと上の空で「ああ」と答えていた。さっきの私の「大好き」の不意打ちパンチが利いているようで面白い。

「あ、いや。それも頼むけど、今後の賄について話したい。凛にはできれば隣のカフェの経営を任せていきたい。凛なら俺よりも女性の心を掴む店を作れると思う」

寝耳に水だった。あの素敵なカフェの経営?

「ああ、凛ちゃんがやりたきゃやってもらいなさい。賄はね、もう古いね。時代と合ってないだろうと近所の友達にも言われてね。独身の男たちだって、駅前まで行きゃ店はたくさんあるんだし、昔と違ってスーパーも近くにできたし、男が料理するのなんて当たり前な時代だよ。もう失くしてもいいんじゃないかね」

賄をなくす? と、今度は女将さんの方に向き直って私は口をあんぐりと空けてしまった。

「凛とも話して、それでいいんじゃないかと俺も思ってた。けど……」

私が賄を続けると高坂社長に言ったことを気にしてくれているのか、航さんは言い淀んで私を見る。

「時代なんて関係ありますか?」

私は口を開いた。二人は私に注目する。

「良い部分は残して、大変すぎる部分は切り捨てませんか? 例えば、昼のお弁当を作るのは明らかに負担です。仕出し弁当を頼むことはできますよね? 思い切って外注してもいいと思います。けど、夕ご飯をみんなで食べるあの習慣はとても貴重ではないでしょうか? 航さんと従業員とのコミュニケーションにもなりますし、離職率低下にもつながっていると感じます。独身男性従業員たちの健康を思ってのことなら尚更、夕ご飯の提供は続けるのがベストだと思います」

二人は顔を見合わせて黙っている。

「お弁当の準備さえなくなれば、以前話していた女将さんと私でそれぞれ週休二日確保することに加えて、私が航さんの言うカフェの経営に口を出す時間も十分に取れると思います。いかがでしょう?」

しん、と女将さんの部屋の清廉な空気が静まり返る。私は二人の顔を交互に見やった。

「この子もやっぱり経営に向いてるのかね」

と女将さんは腕を組んで感心したように言った。

「え……?」と私はポカンとした。

「ああ、凛は経営に向いてる。そうだな。昼の弁当は廃止だな。仕出し弁当を検討しよう。夕飯についても凛の言うとおりだな。毎日じゃなくても続けるべきだと俺も思う」

「まあまあ、しっかりしたお嫁さんが来てくれて、本当に頼もしいこと」

「お嫁さん……ですか?」と私は過剰に反応した。

「早くひ孫の顔を見せてね」

と女将はまたクスクスと笑い、航さんは飽きれた顔で女将さんを見ながらも、ちょっと嬉しそうに私を見て笑っていた。



「ねえ、航さんってさ、やっぱりおきな君でしょ?」

部屋に戻り、ソファで私を膝に乗せ抱きしめる航さんにそう訊いた。

「そういえば倉木って。私に名乗るように言ってた苗字。おきな君と同じじゃない」

航さんは答えずに私の胸元にキスをし続ける。

「なんで言いたくないの? 偽名名乗って遠くから来た子だって嘘ついてたから?」

私は航さんの頭を撫でながら話を続けるも、航さんは無視して私の服を脱がし始める。

「待ってってば」

「……お前は知らないだろうけど」

航さんはゆっくりと私の胸元から顔を上げると言った。

「東京の大学に行ったのはお前が東京に住んでたからだ」

「ええ?」

「でもお前の所在を杉崎のおばあさんに訊いて行くのはさすがに憚られたから、偶然に会うことを信じて」

「……ヴィバリューを担当したのは?」

「それは偶然。お前があの会社にいることは知らなかった。当時知ってたら……ストーカー被害にあう前にお前を連れ出せたのにな」

やっぱり航さんはおきな君だったみたいだ。まだ頭が追いつかない。

「杉崎さんの家の跡地のテントで、寝袋の中でもがいてるお前を見てすぐに分かった。天女が戻ってきたって」

天女? と訊き返したけれど、答えてくれなかった。秘密だそうだ。

「あとこれ、お前が持ってて」

そう言って手渡されたのは、この家を出る時に置いて行った航さんのお母さんの形見の指輪だった。

「女将の許しも出たし、お前の婚約指輪を買いに行くから、それまではこれを持ってろ。もう返すなよ」

掌に乗せられた、豪華すぎるダイヤの指輪を見て、私はクスリと笑った。

「私、もっと質素で家事がしやすい指輪が欲しいよ。そしたらずっとつけていられるから」

航さんは無敵の笑顔で笑って、キスをしてくれた。

「お前らしいな。お前は俺の賄さんだもんな」
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