ようこそ、片桐社長のまかないさん

5 逃げた理由を教えて

航さんからのこの問いは二度目だった。一度目は初めてこの部屋に来た時。

なにから逃げてきた? の問いに私は全てからと答えた。あれも、本当だった。

「誰か特定の人間から逃げてきたんだろ?」

航さんに誤魔化しは通用しない。

「……辞めた会社の上司」

ニヤリと頬に皺を作って笑う、あのトカゲのような顔が思い出された。

「……仕事を辞めたら、なぜかいきなり毎晩アパートに来るようになって。無視してたらポストにいろいろ入れられるようになって。オートロックなのに玄関前まで入ってきてインターフォン鳴らされたり、ドアノブに袋が掛けられてたり」

「ストーカーか」

「分からない。仕事を辞めるまではまったく関わりのない人だったの。言葉を交わしたのも二、三回しかなくて」

「じゃあ、仕事を辞めた原因がそいつだったわけではないんだな」

「たぶん」

「たぶん?」と航さんは首をかしげる。

「私敵が多いの。細かい不正とかずるい嘘とかちょっとしたセクハラとか……被害を受けている人がいたら黙っていられなくて。そのせいで職場では嫌がらせ三昧の日々だったから。その隠れて嫌がらせをしてきていた人の中にあの上司もいたのかもしれない」

「くさってるな、ヴィバリュー」

航さんは吐き捨てるように言った。

「くさってる部分もあったと思うけど、それが普通なのかも。私がおかしいのよ。上手くできない。スルー力がないの」

「お前はそんな力身につけなくていい」

航さんはそう言って私の頭を撫でた。

「でも、社会人として生きていくのに必要な力だよね。……私への嫌がらせが、仲の良かった同期にも及び始めたから仕事を辞めたの。正しいことを言えば誰かを助けられるわけじゃないことも分かってるの。なのに今日も玲奈さんに……」

間違ったことを言ったわけではないとは思っているけれど、玲奈さんの泣き顔を見て自己嫌悪にも陥っていた。

正論は人を傷つける。対人関係に必要な考え方は正しいかどうかじゃない、相手がどう思うかだ。

「ずっとここにいればいい」

航さんは私を抱き寄せると背中に回した腕をぎゅっとした。

航さんの胸元に頬がくっ付く。

お風呂上りの爽やかなソープの香りで包まれた。

「凛は凛のままでいればいい。正しいと思うことを正しいと言えばいい」

「そんなことずっとしてたら、ここにもいられなくなるよ」

「この家も会社も、ついでにここの漁港も。誰の頭脳が回してると思う?」

航さんの顔を見上げると、八重歯を覗かせた無敵の笑顔と目が合った。

「俺だろ?」

「……すごい自信ね」

と可愛くないことを言ってプイと目を逸らしまた航さんの胸に頬をくっつけ直した。

「くさったことをしなきゃやっていけないのは二流のやつらだ。そんな中で一緒にくさるな。せっかくその辺の奴らが持ち合わせてないものを持ってるんだから。凛が凛のままでいられる環境を俺が守ってやる」

その言葉に、私は航さんの胸に顔を伏せた。

どうしてこの人はこんなにも、出会ったばかりの私を救ってくれるのだろう。

「玲奈は大丈夫。今日のやりとりでお前を恨むようなバカじゃないから」

「……うん」

それは分かっていた。玲奈さんとは航さんへの恋情さえなければきっと仲良くなれる人だ。

「しかし元上司がストーカーか。そりゃ実家にも逃げられなかったわけだ。会社はお前の個人情報を持ってるもんな」

「そう。実家の住所も知られてるはず。厄介なことに人事部の部長で……」

「警察には?」

「言えなかった」

「そのストーカーがしてきた嫌がらせ、証拠は残してあるか?」

「うん……一応。インターフォンの画面にその人が写ってるのをスマホで撮っておいたし、ドアノブに掛けられてたものもゴミ袋にまとめて実家に置いてある。すごい回数の着信履歴もスクショして残してあるし、会社で使ってたアドレスにも色んな嫌がらせメールが残ってる」

「そうか……。こっちに逃げてくる時にそいつに尾行されたりはしてないんだな?」

「たぶん。会社の同期にその人が出勤してるのを確認してもらってから家を出たから」

つまり、正確には夜逃げではなく昼間に逃げている。

けれど賃貸の管理会社との契約解除のやり取りは、外から覗けないカラオケの個室でし、管理会社の女性社員に私服で来てもらった。

家具などの運び出しは逃げた後に家主不在でやってもらえるよう手配した。

逃げようとしていることを悟られないよう細心の注意を払った。

あれは夜逃げと呼んで遜色ない。

「祖母の家がこの町にあったことは会社の人には誰にも言ってないから、追って来ることはないと思う。念のため、母にも口止めしたから……」

「それにしても、ストーカーから逃げてきた身で空き地にテントを張ってたのか。危なすぎるだろ」

「貯金もそんなにないし、他に仕方がなくて」

「無事なうちに見付けられてほんとに良かった」

「ちゃんと姿をくらましてきたから大丈夫。今後迷惑をかけることもないと思う」

「迷惑とかはどうでもいいけどな。……ちょっと気になることはある」

航さんは珍しく眉根を寄せて何かを考えているみたいだった。

「え? なに?」

「まあ、お前は余計なこと考えなくていい。ただ、念のため一人で出歩くなよ」

「え! 今日お仕事お休みだから、隣のお土産屋さんのカフェに行きたくて。それはいい?」

航さんの腕をがっしりと掴んで訴えた。

「まあ、すぐそこだしそれはいいけど。他には行くなよ。俺、これから出張だから」

「出張? どこ行くの?」

「銀座」

「銀座!?」と私は声をあげた。

よりにもよって。

航さんがどこぞやの社長たちと高級クラブでシャンパンを飲む姿が頭に浮かんだ。

「老舗の乾物屋と外国人向けの高級ホテルと商談がある」

そうですか、と応えながらも、美人ホステスの白い太ももに手を乗せる航さんが頭を行ったり来たりするばかりだ。

「楽しんできて」

「楽しくねぇよ。乾物屋の社長は話長いし。お前連れてけねーし。行きたくねー」

行きたくない理由に私が帯同しないことが挙がったのでキュンとした。

リップサービスだろうか。だとしても嬉しくてつい口元が緩んだ。

航さんはまた私を抱き寄せる。

「月曜には帰ってくるから。それまで店のカフェ以外に行くのは禁止。分かったか?」

そう言って私の頭にキスをする。

私はコクリと頷くと航さんの胸におでこをくっつけた。

ずっと裸でいるので、航さんの肌はひんやりとしている。

「航さん、服着ないの? 風邪引くよ」

「この方がドキドキするかと思って」

見上げるとまたイタズラに笑っていたので、「ドキドキなんてしません」と言って腕を組んだ。



「じゃあな。ばーちゃん、凛のこと頼む。念のため気をつけてやって」

航さんはあっという間に荷物をまとめ、昼前には玄関に立った。

女将さんに私の事情を一通り説明してくれたようだけれど、私としてはありがたい反面、余計な心労を掛けてしまわないかと申し訳なくもある。

『存在が迷惑』

会社の個人アドレスに、フリーメールでそう送られてきたことがあった。

今の私はどうだろう。

それを考え出すと、少し先がほの暗くなって視界が悪くなる。

今立っている場所から足を取られて落っこちてしまいそう。

「凛? どうした?」

キャリーバッグを手にした航さんが私の顔を覗き込んだ。

「あ、ごめんなさい。行ってらっしゃい。運転気をつけて」

笑ったつもりだけれど、上手にできただろうか。

私の弱くて暗い部分に、どうか気が付かないでほしい。

「あとこれ、さっき簡単に作ったお弁当。良かったら」

出発時間を聞いて先ほど慌てて作ったものだった。車で行くと言うので、片手で食べられるものをいくつか詰めた。

航さんは私の頭をポンポンとして、「ありがとな」と言った。

嬉しくもあって、寂しくもあって、安心もさせられる。

「そういえば……。ヴィバリューの社長は別の会社も持ってたよな?」

突然航さんは、口元に手を当てて真面目な顔をして言った。

「え? ああ、うん。宝石の会社ね。なんで?」

「いや、なんでもない。じゃあな」と微笑んで、航さんは玄関の扉を開け颯爽と行ってしまった。

「さあさあ、お昼にしようかね」とお台所に向かう女将さんに着いて戻ろうと踵を返すと、響君がじっと私を見ていることに気が付いた。

(まさか、朝の玲奈さんの件でなにか言いたいことが?)

余計な口出しするなとか? 玲奈にきついこと言うなとか?

思わず身構えた。

「航さんと凛さんって、付き合ってるわけじゃないんですか?」

予想外の質問に驚いて「え」と大きめの声が出たので、お台所の戸を開けた女将さんまで振り返った。

「あ、ごめんなさい。なんでもないです」とごまかすと女将さんは笑いながら行ってしまった。

「付き合ってないよ。なに? 急に」

「そうですよね。いやでも……。航さんのあーいうの初めて見たから」

「あーいうのって?」

「女の人に自分から触れるところ」

どうやらさっきの頭ポンポンのことを言っているらしい。

(え、私からすると航さんのスキンシップの中ではあんなの序の口だけれど。)

でも確かに人前で頭とはいえ触れられたのは初めてかもしれない。

航さんはそうしたTPOをわきまえている人だとは思う。

「あれはまあ。子供とかペットに対する感じというか」

なんと言えばいいのか分からなくてそんなことを言った。

響君はいつものボンヤリして見える表情で「ふーん」と答えて首を傾げた。

「凛さんと航さんって……」

と響君が言いかけたところで、玲奈さんがやって来た。

三人で目を合わせるも誰も何も言わず、玲奈さんは居間に入っていった。

「ああ、お昼の準備手伝わなきゃ」

と私と響君は女将さんがおいしそうなカレーの匂いをさせているお台所へ急いだ。

準備ができて円卓に運ぶと、私は言われるがままボーっと福神漬けをカレーのお皿によそう。

「凛さんってば」

え? と隣を見ると、玲奈さんだった。

(初めて名前で呼んでくれた。嬉しい!)

「響はそんなに福神漬け乗せない。やめて」

……怒られた。

見ると、女性陣より少し多めの響君のカレーにこんもりと福神漬けを乗せていた。

「ああ、ごめん」

「それで大丈夫です」と響君が言って、私は丁重に謝った。

(……玲奈さんって。)

響君のことを普段からよく見てるんだなと思った。

なんとなく、お節介心が沸いてきた。

「響君ってさ、綺麗な顔してるよね」

カレーを食べ始めてすぐにそんなことを言ってみた。

「なんですか急に」

「ああ、美形よね。切れ長の目が近所の奥様方にも評判よ」

女将さんが口を挿んだ。

「やっぱりそうですよね。塩顔男子って今人気だし。学生の頃はモテたんじゃない?」

「知りません」

「知りませんと来たか! モテなければモテませんって言うもんだよね~。これは相当モテてたね」

と煽り、チラリと玲奈さんの顔を盗み見ると、玲奈さんはスプーンを止めて響君の顔をじっと見ていた。

「玲奈さんは知ってます? 響君モテてました?」

すると玲奈さんはイラッとした表情を一瞬見せ、「知らない」と言い捨てるとカレーを口に運んだ。

「凛さん、絡むのやめてください」

響君にも怒られたので、はーいと返事をして大人しく二人を観察することにした。

玲奈さんが私が用意した水を飲みきると、響君が牛乳を持ってきて玲奈さんのコップに注ぐ。

響君が食べ終えると、玲奈さんは響君が食器を片づけに席を立った後ろ姿をじっと見つめる。

……これは?

玲奈さんは本当に航さん以外の男の人が目に入っていないのだろうか。



「あんた、相当訳ありでしょ」

カウンター席でカフェラテをいただく私を隅から隅まで観察して、明菜(あきな)さんはそう言った。

「……なんでですか」

「大雨の日に社長とここで話してたの聞こえちゃってたのよ。ごめんね、私地獄耳でさー」

土産物屋は今日は大盛況のようだった。

テントに居た一週間は近くの銭湯とスーパーとランドリーにしか行かなかったので分からなかったけれど、休日にはこの小さな港町にも観光客が多く訪れるらしい。

今日は物販に三人、カフェに二人、全て女性従業員が配置されていた。

先ほどまでカフェも席が埋まっていたけれど、4時を過ぎ少し落ち着いたようだ。

「あの社長の隣の部屋に住んでんでしょ? やっぱりさ、ムラッとくるでしょ。ムラッと」

明菜さんは上品な顔立ちと所作からは想像もつかないようなことを言う。

「ムラッとはしません。ドキドキはします」

この会話、もう一人のカフェの店員さんに聞こえてないだろうかと思いつつ、話しやすい人でつい答えてしまう。

「かー。いいね。ドキドキだって。そんなウブな感情、おばちゃんはどっかに忘れてきちゃったよ」

「……明菜さんっておいくつなんですか」

先日初めてここを訪れた時に、明菜さんは決して若くはなさそうだと思ったけれど、近くで見ると肌がつやつやで、一体何歳なのか全く分からない。

「30」と、カウンターの中を通りかかったもう一人の店員さんが教えてくれた。

「ちょっとみっちゃん、ばらさないでよね~」

「明菜さんって良い声してますね」

ハスキーで鼻にかかった大人の声だ。

「あーこれ酒焼けなのよ。去年までスナックで働いてたからさ」

「確かにスナックのママさんぽいです。話しやすくて」

「チーママだったけどね」

と言いながらシンクで洗い物をじゃぶじゃぶ進める明菜さんは豪快に笑った。

なんだか話しているとこちらの気持ちが明るくなる人だった。

閉店時には私はすっかり明菜さんと打ち解けていた。

「悪いね。片付け手伝ってもらっちゃって。今日店閉め一人だったから助かるわ」

つい見ていられず、閉店と同時に調理場に入ってしまった。学生の頃に大学の近くのカフェでアルバイトをしていた経験が活きて嬉しい。

「5時に閉店なんて早いですね」

「遅くまでやってても観光客来ないから。夏の繁忙期以外はこんな感じよ」

「明菜さんはなんでスナックを辞めてここで働くことになったんですか?」

私は調理台とシンクをピカピカに磨きながら訊いた。

「この店は一年前に今の社長がオープンさせたって知ってる? お洒落なカフェなんてない町だからさ、お店の外観が出来上がった頃にここを通りかかって、なんて素敵なんだろうって一目ぼれしたのよ」

「航さんがここを?」

「そうそう。道の駅の中にももう一店舗あるのよ。すごいよね。お父さんの後を継いで一年も経たない内に二店舗もさ。それだけじゃなくてここの漁港も今や社長が回してるようなもんだし、観光も水産も農産も社長が……コンサルっていうんだっけ? やってあげてさ。もう町興しよ」

誰の頭脳が回してると思う? と圧倒的な自信をにじませて言った今朝の航さんを思い出した。

「そんなにすごい人だったんだ……」

「ほんとにすごいみたいよ? スナックのお客さんは土地柄、水産の社長が多かったけど、片桐社長がこの会社を大きくすればするほど漁業関係、お土産関係の周りの会社もどんどん業績が良くなっていくんだって。私には良く分からないけどさ」

「今日も出張で都内の一等地にある店と新しい取引を決めてくるみたいです」

「今は社長が営業して都内にもうちの会社の海産物を沢山卸してるみたいだからね。先代の社長は実直に漁業と加工工場だけを一生懸命やってたみたいだから、その基盤があってこそだって社長は言ってたけど」

感心してため息が出てしまった。何も知らなかった。

「社長が出張じゃ、あんた寂しいんじゃない?」

横目でニヤニヤとこちらを見ながら明菜さんはそんなことを訊いてきた。

「銀座で何してるのかなとは気になります」

「あら。銀座に行ってるのね。ふふ、大丈夫よ。社長は接待しないされないって有名なのよ」

「なんか響君もそんなようなことを言ってたけど……」

「ゴルフも水商売の店も使わないのよ。それなのにどんどん取引先を増やしていくんだってさ。なんか逆に怖いわよね。そこまでいくと」

クズなことをしないとやっていけないのは二流……って今朝言っていたことを思い出した。

接待がクズなことだとは思わないけれど、航さんは純粋な営業力だけで客を掴んでいるのか。

「あの恋愛事に淡泊そうな社長相手じゃ大変だろうけど、まあ頑張って。社長はここのカフェに仕事相手を連れて来ることはたまにあるけど、女の子はあんたが初めてよ」

淡泊? と耳を疑った。

明菜さんにはそう見えるらしい。

私からすると航さんは淡泊とは程遠い。トロトロに甘くて甘くてこちらが溶けてしまいそうになるのに。



夕食時も玲奈さんと、またどこからともなく現れた響君を観察した。

玲奈さんがお醤油をチラリと探すとすぐに響君が手渡す。

響君が水をこぼすと玲奈さんが台拭きを投げる。

私がどちらかに余計な絡み方をすると、どちらかが「やめてあげて」と口を挿む。

(……キュン。)

でも二人は淡々と、まるで相手が自分を恋愛対象として見ていないと確信しているかのようにただ一緒の時間を消化している。

「玲奈さんと響君ってさ。今まで本当に何もなかったの?」

夕食の片づけ後、響君と玄関で別れる時に訊いた。

「ないですよ。あるように見えます?」

スニーカーの靴ひもを結び直しながら響君はこちらを振り返ることもなく言った。

「うん。見える」

「どこがですか。会話なんて普段ゼロだし。高校生の頃は毛虫のように嫌われてたし」

「毛虫? なんで?」

「さあ。ある日突然、『気持ち悪い』『近寄るな』って怒鳴られて。一緒に帰ることもできなくなりました」

(おお、なかなかキツイ。)

でも想像がつく。

思うに、玲奈さんが相手を言葉で攻撃するのは怒っている時だ。何もないのに急にそんなことを言いだしたとは考えにくい。

でも響君は何もしていないと思っている。

つまり、それは?

「響君さあ。その玲奈さんに毛虫のように嫌われた時期、女の子に告白されたりしなかった?」

「告白? さあ。そういうことはちょくちょくあったので。あの時期にどうだったかは覚えてないです」

「あら、やっぱりモテモテだったんだ」

「知りません」

「彼女を作ったり、他の女の子と仲良くしたりはしなかった?」

「はい。……しつこくされて一緒に帰ったことくらいはあったかもですが」

「それが原因だろうに!!」

つい大きな声が出て、慌てて玲奈さんが入っている一階のお風呂の方を振り返ってしまった。

「意味が分かりません」

響君はもう帰りたいと、玄関の引き戸に手を掛けうんざりとこちらを見ながら言った。

「分からないならいいです」

「なんなんですか」

「玲奈さんのこと始めから諦めてないで頑張ってみればいいのにってこと!」

私は一息にそう言いきると、「お休み!」と言い捨てて階段を上った。

(私、また余計なこと言ったな……)



月曜の夜は11月にしては寒く、12月下旬の冷え込みだと女将さんが夕食を作りながら言っていた。

土日の静けさが嘘のように、お台所ではまた戦争が始まった。

休み明けの独身従業員たちに目いっぱい食べさせ、まだ週の始まりなのに私も女将さんもクタクタになってしまった。

……まだ、航さんが帰ってこない。

仕込みもすべて終えてお風呂も入った。髪も乾かし終えて歯も磨いてしまった。もうやることがない。

仕方なく、しばらく触っていなかったスマホを手に取った。

航さんが出張に行く前に、何かあった時の為にと電話番号とLINEを教えた。

教えなければ良かったとすぐに後悔した。教えてなければ、航さんからの連絡がないのなんて当たり前だったのに。

ベッドにスマホを放り投げて、ベッドへ身投げする。

体はクタクタなのに、目が冴えていて辛い。この感覚は久しぶりだった。

こっちに来てからはよく眠れるようになったと思う。

同期の晴香にいたずらメールが届くようになった八月頃から、あのアパートを逃げ出すまでの三ヶ月間、ほとんど眠れなかった日々が嘘のように。

「お祖母ちゃん」

自分の耳にギリギリ届く小さな声で呟いた。

お祖母ちゃんがもういなくても、大好きだったあの家がもうなくても、この港町に上る朝日は同じだった。

この町があって、航さんに拾われて、私は幸運だった。

「航さん」

そう声に出したかどうか、分からない。枕に顔をうずめ、目を瞑った。



眠れないと思っていたのに、いつの間にか眠っていたようだった。

人の気配がした気がして目を開け、点けっぱなしのシーリングに今度は目を細めると、頬に温かいキスが降ってきた。

「起こした? ごめんな」

航さんが私のベッドに腰掛け、こちらをうかがいながらワイシャツのボタンを外していた。

(あれ? 夢だろうか。航さんがいる。多分夢だ。)

昨日もこの夢を見たのだった。

いつもよりも疲れた表情が愛おしく思えて、起き上がると私はぎゅっと抱きついた。

「お? どうした、珍しい」

その躯体の温かさが心地よくて、遠のきそうになる意識をなんとか保とうと努めた。

「凛? 何事もなかったか?」

こくんと首だけでなんとか返事をした。何もなかった。寂しかった。

「寝ぼけてんだろ、お前」

航さんはそう言いながら私の背中に腕を回すと、おでこからキスをし始める。

頬と耳、首筋から胸元へと伝っていくキスが切なかった。

「ここにも、して?」

そう唇を指さした私を、航さんは射るような真っ直ぐな目で見る。

「今日はいいのか」

「ん?」

「前は、ダメって嫌がっただろ」

「航さん、早く。して?」

「お前。……ちゃんと覚えてろよ?」

そう言うと航さんは目尻を下げてとろけそうな顔をし、私の唇を見つめた。

そんな表情初めて見る。私の夢の航さんはいつもよりさらに色っぽくて、こんな妖艶な男の人が存在するのかと思うほどだった。

航さんの唇は想像の何倍も優しくて、唇同士が溶けて絡み合ってしまいそうだった。

柔らかな舌で上顎をゆっくり撫でられる。

口の中が甘い。甘くて甘くて目が回りそうだった。

息をするのも忘れて、私の中を優しく探る航さんに夢中になっていた。

唇が離れると、私は酸欠と眠気でぼんやりしながら航さんが下唇を指で拭う仕草を見つめる。

その後はベッドに押し倒されたと思うけれど、だんだんと意識が遠のいた。

夢はそこで終わってしまった。
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