完璧主義な貴方の恋のお相手は、世話が焼けるくらいがちょうどいいでしょう?
「まだ怒ってるの?」

 コールが帰った後、シェリーはご機嫌を伺うようにリチャードの顔を覗き込んだ。

「ええ、怒ってますよ」

 本当はそんなに怒っているわけではない。特に、川遊びの件に関してはコールのおかげで息抜きができたのは確かである。

 小さな鏡の前で、シェリーは丁寧に髪を溶かしている。

「ごめんなさい。明日からは大人しくするわ」

 眉を下げて、心から反省したような素振りを見せているが、明日の朝になって誰かが「川に遊びに行こうぜ」と言ったら、彼女は絶対に行くだろう。

「私が怒ってるのは……いえ、なんでもありません」

 リチャードは口に出し掛けた言葉を切ると、ふいっと背中を向けて部屋を出て行こうとしていた。これ以上話していたら、彼女に当たってしまいそうだ。


「何も話してくれないのね。寄宿学校時代からそうなの?」

「何を……」

 リチャードは驚いたように振り返った。

「コールから聞いたわ……石切りで勝ったから」

「……」

 白熱した石切りの原因はこれだったのか、とリチャードはがっくりと肩を落とした。

「……他には何を聞いたんです?」

「実はディークス子爵家の次男で、訳あって町を離れているってところかしら……」

 訳までは教えてもらえなかったわ、とシェリーは慌てて付け加えた。嘘が吐けない彼女は、しばらく視線を彷徨わせたかと思うと、すっと目を閉じた。隠しきれないと、とうとう諦めたようだ。

「……貴方が話してくれるまで待とうと思ったの。コールとの関係について……何か事情がありそうだったし。でも、どういうお知り合いなのかだけでも知りたくて」

 探るような真似をしてごめんなさい、とシェリーは居心地悪そうに謝った。

「それなら、私に直接聞けばいでしょう」

 シェリーの顔の横にバシッと手を置くと、彼女は一瞬だけ怯えたよう表情をして、すぐにリチャードを睨むように見上げた。

「聞いてもいつも教えてくれなかったじゃない」

 リチャードはグッと言葉に詰まった。

「それは……申し訳ありません。隠していたのは、業務に支障があると思ったからです。今時は珍しいことではありませんが、以前勤めていた所は逆に気遣われしまって……マックス様にお願いして身分を明かすことは控えていました」

 爵位を持つ家の次男以下が、勉強の為に使用人として働くことは近年珍しくない。だが、そうした場合、基本的にはもっと格上の家へと仕えるはずだ。

「なぜコールドウェル家に……?」

「行く当てもなく彷徨っていたところ、マックス様が声を掛けてくださったのです。あまり良い給料を出せないと言われましたが、私にとっては住む所を与えてくださるだけでも十分でした」

「……でも、薄々気付いていたわ。貴方って何でもそつなくこなすし、なんだか品があるもの」

「お褒めに預かり光栄です」

 リチャードは片方の口を上げて意地悪そうに笑っている。

「……何故、町を出たのか。本当はコールから聞いているでしょう」

 コールは人がいい。ここまで話してしまったら、リチャードのためにも理由まで話さなくては悪いと思ったに違いない。そして、シェリーにも言ったはずだ。

「聞いたわ、でも貴方は悪くない」

 ーーリチャードは悪くない、コールなら必ずそう言うと思った。


 数年前、ちょうど今くらいの時期だった。

 リチャードの幼馴染であるドローレス・ハンフリーに縁談が舞い込んだ。相手は金持ちだが悪名高い隣国の侯爵で、彼女はそれを嫌がっていた。
 周囲の人間も必死で止めてた。それなのに、彼女の父親は金に目が眩んで勝手に承諾してしまったのだ。絶望した彼女は、リチャードに「一緒に逃げて」と言った。

 そして、その夜、二人は町を出た。


「……後悔はしていません。ですが、悪いことをしたと思っています」


 逃亡先での彼女は幸せそうだった。これでようやく二人きりになれた、質素な暮らしでも、このままずっとと身を隠す生活が続いても構わないと、彼女は本気で思っていた。リチャードと結婚する気だったのだ。

 幼い頃から、いつか二人は結婚するだろうと揶揄われていたが、実際に関係を持ったことはなかった。

 その後、彼女の父親に居場所見つかって二人はすぐに連れ戻された。彼女の婚約は白紙になった。そのことを、彼女の父親は許さなかった。 
 ハンフリー家は絶大な権力を持っていた。当時、リチャードの兄は結婚を控えていたのだが、そこに水を差したくないなら、リチャードをディークス家から追い出すようにと命じたのだ。

 リチャードはそれを聞いて迷うことなく家を出た。おかげで、兄の結婚は滞りなく進んだようだ。ディークス家も平穏に暮らすことができた。悪いのは、娘を誑かしたリチャードただ一人ということになった。

 町の人間の中には、リチャードのことを"恩人"だと言ってくれる人もいた。だが、彼女の父親の手前、手を差し伸べてくれる者は誰もいない。

 自分のことを誰も知らない町で雇ってもらったこともあるが、子爵家の人間だと知られると面倒なことが多く厄介払いをしたい雇い主に丁重(・・)にクビにされてしまった。

 酒場で行くあてもなく途方に暮れていた時、偶然マックスと出会った。マックスはリチャードの噂を聞いていたにもかかわらず酒をご馳走してくれた。

『うちも年頃の娘が二人いる。下の娘は社交界デビューまで少し先だが、考えると胃が痛いよ。どうかな、貧乏だからあまり良い給料は出せないが、家に来るか?』

『でも……良いのですか?』

『ああ、君さえよければ』

 どうせ、ハンフリー家と関わりもないし。と、マックスは豪快に笑った。
 

「お父様がそんなことを……」

 父はそんな話を聞かせてくれなかった。

「マックス様はお優しい方ですね」

 リチャードはそう言って誇らしげに笑った。

「知らないことばっかりね……貴方のことも、何でも知っているつもりになっていたわ。もう一つ聞いてもいい?」

「ええ、どうぞ」

 シェリーは気遣うようにリチャードの腕に触れた。

「……後悔してる? ドローレスさんのこと」

 そのまま二人で逃げていたら、戻ってプロポーズしていたら、もしくは一緒に逃げたりしなければ……未来はまた少し変わっていたのかもしれない。

「わかりませんね。私はすぐ町を出て、風の噂で彼女も町を出たと聞きました。どこかで幸せでいてくれたらいいのですが……」

「そう……」

 リチャードの固く握りしめた拳に包み込むように手を重ねた。少し骨張ったその手、これまで罪悪感や無念さを一人で握り締めて隠していたと思うと、シェリーも辛かった。

「話してくれてありがとう……私ね、ちゃんと知りたいのわ、貴方のこと」

 向き合った姿勢のまま、シェリーはリチャードの手をしっかりと握り締めた。こうしていないと、目の前から消えてしまいそうに思えたたからだ。

 いつもは、こうして励ましてもらっていた方だった。今度はシェリーがリチャードの味方でいたい。

「……さっき私が怒っていたのは貴方にじゃない。コールです」

 リチャードは少し考える素振りをして、ゆったりと話し始めた。

「……いえ、コールだけが問題じゃありませんね。お嬢様に近付く男、全てが気に入らないのです」

 いつの間に、日が落ちたのだろうか。灯りもつけないまま、青白い闇が部屋を包んでいるようだった。

「貴方にはもっとふさわしいしい男がいる、だなんてもっともらしい言い訳ばかりしてきましたが、結局の所……」

 リチャードは少しの間、口を閉ざした。シェリーは自分の心臓が爆発してしまうのではないかと恐れていた。体の全ての神経を集中させて、彼の言葉の続きを待っていた。

「……貴方を愛してる」

 諦めたように笑うと、リチャードがスッと部屋を出て行こうとするのが分かった。

「リチャード……待って」

 慌てて呼び止めると、ぼんやりとした輪郭が曖昧に歪んだ。泣いているのか、笑っているのかも分からない。

「これは私の勝手な思いです。どうか、お気になさらないで。マックス様には明日にでも私からお話します」

「……待って!」

 シェリーはその場からすぐにでも去ろうとするリチャードの背中に勢いよくしがみついた。

「貴方を失いたくない、やっと気付いたの」

 温かい体温と、鼓動の速さも伝わってくる。薄暗くて良かった、この表情を見られないで済む。

「私が愛してるのは貴方よ、リチャード」
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