サヨナラをいいにきたんだ。

第二章 「友達」

「……暑い。暑い」
 私の目の前を、たった今まで乗っていたボロボロのバスが走り去る。右も左も一本道。しかも舗装されていない畦道。前も後ろも田園地帯。そして私の隣には今にも折れそうなバス停。こんな場所にバス停を立てた理由がさっぱりわからない。一体何処へ向かう人が下りるのだろうか。
 薄汚れた時刻表を見ると、どうやら一日に二本だけ走っているらしい。とりあえずその内の一本は私たち以外に客は居なかった。最早、二本もいらないのではないか。それどころかそもそもバスなんて必要ないんじゃないか。なんてやさぐれた考えが浮かんでしまうのはこの真夏日と耳をつんざく蝉の大合唱のせいだろう。
「貴様。だからあれほど帽子を買ったほうが良いと言ったではないか」
「うっさいわねぇ……」
 大きめの麦わら帽子を被った葵が勝ち誇った顔を向けてくる。最早ぶっ飛ばす気力も無く、イライラするのもめんどくさかった。
「春乃。はいこれ飲んで。それとこれを被っておくと良い」
 千雨は私に水を差し出して自分が被っている茶色いハットを私に被せた。
「あ、ありがと」
「いいよ。とりあえず少し歩くから、つらくなったら直ぐに言ってね。一応休みながら行くけど」
 私は手を挙げて答える。水はどんどん喉を通って胃に溜まっていくのがわかった。
 そもそも、なんで私はここに居るのか。そして何故まだこの二人と行動を共にしているのか。
 事情はそれほど単純ではない。簡単には語れない心情があった。
 でも、敢えて簡単に言うなら『答え』を知る為。だ。
 私には一つの疑問があった。彼らは私を助けに来たはずなのに、何故か木下純平にしたような事はせず、むしろ私に仕事を手伝わせた。それだけならまだしもその後は自由と言うのだから訳が分からない。だって私は彼らと離れれば関係した事全て。つまり、木下純平との出来事も忘れてしまうのだ。
 だったら私は結局、自殺するんじゃないのか。と思った。これで何か変わったとは思えないし。そう考えると謎はどんどん深まっていって結局、私はもう少し二人について行く事にしてしまったのだ。それこそ、彼らの狙いでこうなる事は最初から想定済みなのかも知れないが、もしかしたら私を弁離士にしようと思っているのかも、なんて考えたりもしている。
 絶対に断るけど。
 むしろ、今すでに全力で後悔しているくらいなんだから。
 電車を何本も乗り継いで本数の少ないバスに揺られてこんなど田舎に来るなんて思いもしなかった。全く持って想定外の出来事。
 けど、一度決めた事は曲げる気にならなかった。ホントにめんどくさい性格だ。誰に言われなくても自分でそう思う。
「ほれ。置いて行くぞ小娘」
「うるさい田舎中学生」
「なにをー!」
「もうめんどくさい! 暑い! 暑い! 暑苦しいっつーの!」
 ポカポカと手を出して来る葵を捌いて行くうちに溜まったイライラを一気に噴火させて私は大空へ叫んだ。蝉がより一層鳴き声を強めた気がした……ホントに暑苦しい。
 曲がり角が無く、視界が開けた道はそれだけでやる気を削いで来る。一本道って時に残酷だ。視界の果てにゴールが見えないということはそれ以上、歩かなければならないと言う事。曲がり角や、ビル群のせいで見えないとかだったら見えなくても近づいている気はするのに、これではいつまで経っても辿り着かないんじゃ。なんて気さえして来る。
 それでも、合間に休憩を挟んで何とか目指していた学校まで辿り着いたのだから自分を褒めてやりたい。恐らく五時間以上かかったと思う。その間にバス停はなかった。
 あのバスは一体、何処へ向かったのだろうか。
「さて、この風情のある校舎で一仕事じゃの」
「そうだねぇ。ここまで年季が入っている校舎は見た事が無いなぁ」
「ワシとしては懐かしさを感じるがの。これでこそ学校じゃ」
「……いいから早く中入って休みましょ」
 千雨と葵は清々しく汗を拭いながらそびえ立つ校舎を眺めていた。私はそれを追い越してフラフラの足取りで木造二階建てオンボロゴーストスクールに向かって一人、歩いた。
 外観通りの内観だったけど、床も抜けてないし造りはしっかりしているんだろうと思う。
 歩く度にギシギシ言うけれど、きっと木造特有のものなんだろう。
 私たちは中央にある階段を上って二階に上がると、そのまま目の前にあった教室の中に入って色々と準備をした。ここは普通の教室なんだろうけど、廃校になっているからか、はたまた元々なのか、机と椅子が全然なかった。
 それらを適当に端へ寄せて、ビニールシートを敷いたらその上に腰を下ろす。日陰というだけで随分と温度が違った。これも木造特有のものなのかはわからない。
 葵と千雨はまだ日が高いうちに校舎内を散策すると言って教室を出て行ってしまった。
 散策する程、広くもない気がするが別にどうでも良かったので特に何も言わずにそれを見送ると私はその場に寝転がる。
 学校の中でこうして寝転がると中々気持ちが良かった。妙な背徳感が心をくすぐる。
 天井の蛍光灯は取り外されていた。夜は真っ暗かもしれないな。なんて思いながら私はそっと目を閉じた。
 窓の隙間から風が通り抜ける。蝉の鳴き声は随分と遠い。少しずつ引いて行く汗。
 私は体の力を抜いて重力に身を任せた。そしたらすぐに夢の引力が私を攫って行ってしまった。
「あのー……」
 誰かの呼ぶ声が聞こえる。女の子? でも葵じゃない。
「あのー! あのー!」
 私は体を揺すられる。こういう起こされ方はあまり好きじゃない。
「なによ? 誰?」
 瞼も開けずにボソッと突き放すような言い方で問う。こんな廃校じゃ、誰? なんてお互い様かも知れないが。
「誰って……私はここの生徒なんですけど」
「え?」
 ガバッと体を起こす。薄く開いた視界には赤く染まる世界に膝をつきながらこちらを伺う女子高生がいた。って言うかもう夕方か。
「ここの生徒?」
 私は半眼を向ける。まだ目が光に慣れていないのもあるけど。とにかく、ここはもう廃校になっているのにそれはおかしい。生徒が居るわけない。
 でも、目の前の女子高生は頷いた。
「まぁ、元。ですけどね!」
「なんだ。そういう事」
 元、ここの生徒なのね。驚かすなよ。
「あなたこそ。何してるんですか? ここで」
「何って。お昼寝?」
「そりゃまぁ、そうでしょうけど。ここの卒業生でもないですよね? それ違う制服だし」
 私は自分のスカートと彼女のスカートを見比べる。同じ色のプリーツスカートだ。丈も大差ない。でも、私の方には微妙にチェックが入っていた。それだけの違いがどれだけ大きいか。きっと千雨や葵にはわからないんだろうな。なんて関係ない事を考えて吹き出してしまった。
「何で笑ってるんですか?」
「いや、ごめんなさい。別の事考えてた」
「あなたって……結構失礼な人ですね」
 彼女は少しむくれてしまった。私はこの頃にはすっかり目も慣れているので目の前の女の子がハッキリと見えていた。
「ちょっと聞いて良い? あんたはここの元生徒って言ってたわよね? じゃあ何で制服来てこんなとこにいるのよ」
「え? そんなの。お別れを言いに来たんですよ」
「誰に?」
「学校に」
「何で?」
「引っ越すから」
「あ、そう」
「そうなんです」
 単語の言い合いは果たして会話なのか。私たちはお互い牽制し合いながらしばし、沈黙した。
 そう言えば、あの二人はどこに行っているんだろうか? もう数時間は経っているはずなのにまだ帰って来ない。探しに行くべきか。待つべきか。
「ねぇあんたさ」
「みゆきです」
「……そう。じゃあさ、みゆき」
「あなたの名前は?」
「春乃。でさ、みゆきはここの元生徒なんだよね?」
「そうですけど?」
「ならちょっと校内を案内してよ。連れが二人居るんだけどまだ戻って来ないんだ」
「別に良いですけど……春乃達ホントに何しに来たんですか?」
「別に大した事じゃないわよ。さ、お願い」
 私が立ち上がると、みゆきも首を傾げながら立ち上がる。校内はそんなに広くもないし、直ぐに見つかるだろう。
「はいはい。みゆき。前歩いてくれなきゃわかんないから」
「わかった。わかったから引っ張らないでください。あなたって結構自分勝手ですね。友達いないんじゃないですか?」
「うるさい」
「図星ですか。まぁいいですけど。じゃあまず一階の端から順々に行きましょう」
 みゆきは呆れたと顔で語りながら階段を下りて行く。少しだけ突き飛ばしてやりたい衝動をぐっと押し殺した。何だか自分が少し暴力的になっているような気がする。さすがに気のせいであって欲しい。
 校舎内は夕陽が窓から差し込んでいて、体力が戻った私にもようやく二人の言っていた風情を感じられた。風も相変わらず心地よく、キシキシとなる廊下も小気味良い音に聞こえた。
 私たちは歩きながら少しだけ会話を弾ませた。お互いの身の上話とかではなく、主にここらへんの文句で盛り上がった。どうやらこの町の住人もこの圧倒的な不便さには不満を抱いているらしい。
 思った以上に会話は止まらずに進んだ為、学校内はあっとう間に探し終わってしまった。
 けど、二人は見つからなかった。
「なら、裏庭も見に行きましょうか?」
「うーん。そうね。でも、これでいなかったら」
 この日暮れの中で私は廃校に一人と言う事になる。リアル肝試しだ。幽霊関係はそこまで関心ないけど、流石に心細い。
「春乃。ほら見てみて! 見て下さい」
「んー?」
 もし居なかったらどうしようかと思案していたら、昇降口を出たみゆきに手を握られた。
「ほら! この夕陽の感じ! この風景は自慢なんです! 私の!」
「倒置法を使うくらい好きなのね」
「ほんとに変な所つついてきますよね。でもいいでしょ?」
「それなりにね」
 確かに夕陽に照らされた校庭と言うのは郷愁感を誘う。でも、今の私にとってそれはまるで客観的な意見で、結局、郷愁感なんて欲していない私はそんなものより二人が今、どこにいるかのほうが大事だった。
「んじゃ早いとこ裏庭に行こう」
「あ、もう。春乃は無感情なんですか?」
 サッと私の前に回って後ろ歩きで質問して来る。手慣れた場所だから出来る芸当だろう。全く前を見ずとも、その足はちゃんと校舎に沿って裏側に回ろうとしていた。
「無感情じゃないわよ。興味ないものは興味ないだけ」
「……誰でもそうだと思いますけど」
 私に呆れたのか、そのまま前に向き直ってしまった。私はもう一度校庭を流し見る。
 誰でもそうなわけがない。こんな風景を見て感動しない人間なんて居ない訳が無い。
 私はその感情が邪魔なだけだ。感動なんてしたくない。そんなもの必要ない。
 私はこの世に何かを感じるのも、何かが残るのも嫌なのだ。
 思い出なんてあればある程、邪魔になる。重たくなってしまう。
 私は出来るだけ身軽にならなくてはならない。
 死ぬ為に――――。



「――――いませんでしたね」
「ねぇ。どうしようかな」
 私とみゆきは朝礼台に座って沈みゆく夕陽を眺めながら、この後をどうするのかと話し合った。
 目の前にある真っ赤な球体がいなくなってしまえば、私のリアル肝試しが始まってしまう。
「ねぇ。みゆきはいつ出発するの?」
「明日ですけど?」
「ふーん」
「何ですか。聞いておいて、ふーんって」
「いや、そっかぁ。って思って」
「春乃はどうするんですか? お連れさんを待つんですか?」
「そうするしか無いでしょうね」
 当然のように何も聞かされていない私はどうすればいいかも分からないし、ここで待つ他の選択肢は見当たらなかった。
「わかりました。それならお連れさん来るまで私も一緒に居ますよ」
「え? 何でよ」
「嫌ですか?」
「いや、嫌じゃないけど」
「じゃあそうしましょう」
「ホントにいいの?」
「はい。いいですよ。私も楽しいですし」
「ふーん。あんたも変わってるのね。お人好し?」
「どっちも言われませんけどね!」
「そう」
 私たちは夕陽がほとんど沈むのを見届けて、暗黒の校舎へと戻って行った。
 薄暮れの校舎は雰囲気が一変していて、廊下の軋む音一つとっても表情を変える。
 正直、みゆきが居てくれて助かったかもしれないな。と思いながら、理科室に寄りアルコールランプに火を点けてランプ代わりにする。これで廊下を歩くといよいよ肝試しだななんて話すとみゆきはケラケラ笑った。
「あんまり幻想的にはなりませんね」
「どちらかと言うとお化け屋敷よね」
 何往復かして全てのアルコールランプを集めて来たけれど、燃料節約のため数個しか使用してないせいか、その頼りない火力は教室の全てを照らしてはくれない。
 中心で揺らめく炎達は恐ろしさを助長しているようにも感じた。暗闇のままの隅にはあまり視線を向ける気にはならない。
「燃料もありますし、まぁ朝までは持ちますよね」
「廃校にしては結構残ってて助かったわ」
「朝までに来るといいですね」
「ねぇ。でも来ないかもねぇ」
「何言ってるんですか! そしたら来るまでずっと一緒に待っててあげますよ!」
「明日引っ越すくせに?」
「へへへ。バレました?」
 バレるも何も自分で言ったんだろう。なんて言い返しはしない。とにかく明日には戻って来るだろう。というより夜が更ける前に帰って来るだろうけど。
 それまで、この実はお調子者のみゆきとくだらない会話をしながら時間を潰す事にしよう。不毛な会話は対して面白くもないけど、記憶にも残らないので丁度良い。
 みゆきは心を開いてくれたのか、どんどん明るくなっているように感じた。もちろん口数が増えている。私は相槌を打ちながら時折、質問を交えて会話を繋げた。あまり人と関わりたがらなかった性格のおかげだろう。会話をこちらの自由に続けたり終わらせたり出来る術は誰に教わらずとも昔から自然に出来ていた。
「いやー。春乃と話していると楽しいですね」
「そう? あんまり言われないけど」
「じゃあ相性がいいんですね私たち」
「そうね。そうだといいね」
「もー。すぐそういう事言う」
 みゆきは言葉とは裏腹に笑っていた。多分、本当に楽しいんだろう。もしかしたらこの子も友達いないのかも、なんて思ったけれどこれだけ社交性があるんだからそれは無いだろう。
 引っ越し前、最後の夜にこうして学校に居残って夜を明かすなんて状況に少し気分が高揚しているのかも知れないな。私も何だか変な気分だから。
「もう結構時間経ちましたよね?」
「そう……だねぇ」
「来ないですね」
「そうねぇ」
「春乃は何でそんなに無関心なんですか?」
「いや、無関心じゃないよ」
「じゃあ無関心のフリ?」
「フリ……フリかぁ。うん、まぁそうかもしんない」
 何だか自然と本音が溢れてしまった。無関係な人間は喋りやすいのだろうか。
「ほんとに変わってますね。別に関心持てばいいじゃないですか」
「色々とあんのよ。ほっといて」
 本音を漏らしておきながらそれ以上は踏み込ませない。もちろんみゆきも弁えているのか、それ以上は質問を重ねようとはしなかった。
 火はゆらゆらと揺らめいて、私たちはそれを挟んで座りながら時間を潰す。
 深夜三時。
 もしかしたらもう戻って来ないんじゃないかって思い始めた頃にみゆきは急に立ち上がった。
「良し! 気分転換に肝試ししましょう!」
「それ……気分転換になってる?」
「なります! そしてラストには素晴らしいプレゼントもあります」
「何それ。全然気にならない」
「フリはもういいですから! さ! 行きましょう!」
 みゆきは私の腕を引いて強引に立たせるとそのまま教室を後にした。
 本当に興味ないんだけどな……

 
 ――――……。


 夏真っ盛りとは言え、午前三時はまだ真っ暗だ。なんなら一番真っ暗だ。
 みゆきは勝手知ったる校舎内を順々に案内してくれる。してくれるのだけど、さっき明るい内に辿った順路と全く変わらないから別に肝試しにはならなかった。
 そりゃ最初のうちはドキドキもしたが、三教室目あたりから見慣れてしまって適当に相槌を打ちながらみゆきの楽しそうな雰囲気を壊さないようにしているだけだった。
「ここは私の居たクラスです」
「へー。何か人数少ないのね」
 二階の一番端にあった教室。中には五、六組の机と椅子が散らばっていて、何とも寂し気だ。「流石にこんなに少なくありません。倍はありました」
「ふーん」
 と言っても十人。やはり少ない。
 ドアを開けると教室の中を風が通り抜ける。すきま風は少し肌寒かった。
「これです。この机」
 みゆきは倒れていた机の一つを起こすと埃をはたいて変な表情をした。
「何……これ?」
 私が覗き込んだその机の表面には無数の落書きが所狭しと書かれていた。薄く擦れてはいるものの、その内容は何ともひどいものばかりで、明らかに悪意を持って書かれたとしか思えない。
「へへ……実は私、あんまりクラスメイトと仲良くなくて」
「いや、あんた。仲良くないってレベルじゃないでしょ。これってイジ……」
 ほとんど言いかけて口を噤む。それ以上言っていいものかわからなかった。
「遠慮しないでいいです。そです。私、イジメられていたんですよ」
 みゆきはとても寂しそうな顔で笑った。今にも泣きそうな顔で私の目をジッと見つめた。
「何でよ。あんたみたいのがいじめられるって……何か理解出来ないんだけど」
 私は視線を外して机の角をつまんだ。何処を見たらいいか分からない。こんな風にイジメとしっかり向き合うのは初めてだ。
「簡単ですよ。私は転校生。余所者なんです。だからあんまり受け入れられなかったみたいで。先生も見て見ぬ振りでした。嫌ですよね何かそう言うの。陰湿で、排他的で。まるでこんな綺麗な町に住んでいるとは思えない程、みんな心が汚れている。表では仲良さげなのがすごく気持ち悪かった」
「そんな町なの……かな? あんたしか出会ってないからわかんないけど。田舎だからって事でもないでしょう?」
「そうですね。言うならこの学校が変だっただけかもしれません。他の方々は別に普通でしたから。むしろ親切だったかも」
「じゃあなんで……」
「私も最初は頑張ったんです。ちゃんと私を知ってもらえれば仲良くなれるって。今はまだお互いに探り合っているだけなんだって。でも……」
 みゆきの目からポロリと水滴が落ちた。その水滴は乾いた机に綺麗な波紋を浮かべて落書きの黒を浮きだたせた。
「でも、ダメでした……いつしか探りが拒絶に変わってしまって私はイジメられてしまいました。先生も私の事を拒絶していたから相談もできなくて。ようやく憧れの田舎暮らしにたどり着いた両親にも言えなくて……」
 みゆきの目からはどんどん涙が零れ落ちる。私は机の角から手を離した。
「でも、一人だけ味方が居てくれたんです。香奈ちゃんって言うんですけど」
「……じゃあその香奈ちゃんが助けてくれたの?」
 みゆきは笑って首を振った。
「いえ。そんな事したら今度は香奈ちゃんがやられてしまいますから。私の代わりにじゃなくて私と一緒に……だから香奈ちゃんとは学校外で会っていました。見つからないように山や川で色んな話をして。なんか春乃にちょっと似てるかもしれませんね」
「そう……そっか」
 唯一の救いがそれだけでも、あるだけマシなのだろう。現にこうしてみゆきはお別れに校舎へ訪れるくらいの気持ちを持てているのだ。それはきっと香奈ちゃんの助けがあったからに違いない。
「でも、話はそこで終わりません」
 みゆきは急に感情がない暗い顔になって机を撫でた。
「香奈ちゃんは……香奈ちゃんは」
「ど、どうしたの?」
「そろそろですね。行きましょう。春乃にプレゼントしなきゃ」
「ちょ! ちょっとみゆき!」
 みゆきは凄い力で私を引っ張って教室を飛び出した。その足はそのまま中央の階段へ向かってそれを駆け上がって行く。
 扉を開けるとそこには少しずつ白み始めている空が広がっていた。
「お、屋上?」
 私の腕からみゆきが手を離すとクルッと振り返る。その表情はさっきの笑顔に戻っていた。
「そうです! 屋上です! さぁあそこに座りましょう!」
 みゆきが指差したのは中央の端。つまり時を止めた大きな時計の上だった。私たちはそこから足を投げるようにして座ると、白い時計にもう少しで足が届きそうだった。
 横には赤い屋根が広がっていて、どうやらこの五、六メートル程の幅しかない中央部分だけこうして外に出られる使用になっているらしい。屋上なのか、それとも時計の修理に使う為なのかはわからないが、私たちはそこから真っ直ぐ、どんどん明るくなる風景の果てに視線を投げた。
 朝日と言う名の太陽がゆっくりと姿を現し始めると、広がる大地が色づき始める。広がる視界いっぱいに光が届いて「朝」が始まろうとしていた。
「ねぇ? これ私のお気に入りの風景なんです! この町で一番印象に残ってるのがこれなんですよ!」
「確かに……これはなんか、うん。いいわね」
「でしょ? でしょ?」
 みゆきは足をばたつかせて目の前に広がる光景を楽しんでいる。私も何となくみゆきからまた視線を前方に戻して深呼吸した。
 朝の空気は新鮮な気がした。何も変わっていないはずなのに、早朝の空気は何故か一新された気がするのは、やはり新しい一日の始まりだと思っているからなのだろうか。
「確かに良いプレゼントだったわ。ありがと」
 私がみゆきに視線を移すと、みゆきもこちらに振り向く。そして満面の笑顔で私の肩を掴んだ。

「プレゼントはこれじゃないよ」

「え?」
 みゆきは私の肩を支えに思い切り良く立ち上がると、その手を私のうなじに変えてグッと押して来た。
「ちょっと! 危ない! 危ない!」
 体は前傾姿勢になり、バランスが崩れる。校庭に投げ出されてしまいそうな体を何とか縁を掴んだ両手と壁に押し付けた踵で支えた。
「何すんのよ! こういう悪ふざけはいらないから!」
「ふざけてないよ?」
「はぁ? もういいから! 離して!」
 私は目の前に広がる視界を見つめながら後ろでどんどん力を込めて来るみゆきに叫ぶ。
「本当に! 良いプレゼントだったから! おかげで目が覚めた!」
 返答はなかった。代わりに力がまた強くなっていく。
「みゆき! 本当にやめて! お願いだから! 落ちちゃうから!」
「春乃。ジッとして。この高さだとちゃんと頭から落ちないと。死ねないよ?」
「み、みゆき?」
 その声は暗く、そして重たかった。でも確かにみゆきから発せられたとわかる妙な声だった。
「春乃。一緒に死のう? ね? 私はもうさよならするの。遠い世界に引っ越すのよ」
「死ぬ? あんたも、もしかして引っ越すって……!」
「うん。天国に行くの。一人で行くのもお互いに寂しいでしょ? だから一緒に行くの。ね? 春乃。出会えて良かった。ずっとずーっと一緒だよ?」
「ちょっと待ってよ! あんた何言ってんのよ!」
「わかってるんだから。春乃は死にたがってるんだよね? 目を見たらわかるんだ私。いや、匂いかな? うーん雰囲気かも。ま、何でも良いよね? だからさ私が手伝ってあげるよ。ね? そのかわりわたしとずっと一緒。ね? 裏切らないよね? ね?」
「わけ分かんない事言わないでよ!」
「そう? 図星なくせにぃ」
 みゆきの声は暗いまま、でもすごく楽しそうに弾んでいる。そうか、そう言う事だったんだ。
 みゆきは今日、ここで死のうとしていたんだ。怨念を込めてこの学校で、呪いでもかけるように飛び降り自殺をしてやろうとしていた。そこで偶然私と出会った。
 最初からこのつもりだったんだ。
「春乃? ね? 大人しくしてて。ちゃんと死なせてあげるから」
「余計なお世話よ! 死ぬタイミングなんて自分で決めるんだから! あんた死にたいなら一人で勝手に死になさいよ!」
「一緒だよ……一緒だよ」
 ぐっとまた体が前に押される。まずい、もう支えきれる自身がない。朝日はほとんど顔を出していて、脳裏に私の死体が浮かび上がって来た。真っ赤な血がみゆきの落とした涙のような波紋を描いていて、私はそこで目を見開いたまま横たわっている。
 こんな、こんな死に方を望んでいた訳ではない。こんな所で死ぬのならあの時、すんなり死ねていたはずなんだ。
 私はまだ何かを残しているんだ。きっと。その答えを知る為にここへ来たと言うのに、連れて来たあのバカ二人はどこをほっつき歩いているんだ。
 こいつだろう。今回助けるのはこのみゆきなんだろう。
 早く来ないと死んじゃう。みゆきも私も。

 早く。早く早く早く!

 早く来い! 来て! 来てよ! 何やってんのよ! 死んじゃうよ私!

 助けるんじゃないの! ねぇ! 答えてよ! ねぇ! 助けてよ!

 ――――千雨!

「そこまでだよ!」
 私の声にならない叫びに答えたように、聞き慣れた声が後方から届いて来る。最早ギリギリでとどまっていた私の体を押している力がピタッと止まった。
「あなた……誰?」
 みゆきの声が投げられる。私は後ろを確認出来ないが、コツコツと足音が近づいていた。
「動くな! 動くと一気に落ちるぞ!」
 みゆきの手に力が込められて、また少しだけ体が傾いた。もう時間の問題だ。握力もほとんど残っていない。
「わかった。これ以上近づかない。だからその手を離してくれないかな?」
「離すわけないじゃない。春乃は一緒に死ぬのよ」
「一緒に死ぬって……ただ単に春乃を殺すだけじゃないか」
「ふん。何の事かしら?」
「春乃を殺してどうするんだ?」
「一緒に居るのよ。この学校でずっと二人で遊んでるの。ずっとずっと楽しく過ごすのよ」
「……みゆきちゃん。時間がない。今から僕の言う事を聞いてくれ。いいかい? 幽霊同士は姿が見えない」
「は? 何言ってるのよ!」
「君は見た事あるか? 幽霊を」
 みゆきの手が震えた。少しだけ力が抜けて、私はグッと体を戻す。でも、直ぐにそれは押しとどめられてしまう。
「幽霊を見た事あるのかと聞いている」
「……ないわよ」
「だろう? 君が死んでもう七十年近く経つというのに。見た事がない。それはね、幽霊になったからといって幽霊が見えるようにはならないからなんだ。生前に能力を持っていなければ結局死んでも幽霊を確認出来るようにはならない。だから春乃を殺しても一緒には居られないんだ」
「そんなの……そんなの! やってみなきゃわからないじゃない!」
 私の体は依然として危険に晒されていたが、さっきよりは余裕ができていたため千雨の言葉をしっかりと聞き取れていた。
 みゆきは死んでいる。
 七十年前に。
 と言う事は、このみゆきは幽霊。地縛霊と言う事。私はずっと幽霊と過ごしていたのか。
 確かに、廃校になって随分と経っていた雰囲気だった。おかしいのだ。制服を着てこの学校にお別れに来ると言う事が。元生徒と言っても廃校になって随分と時間が経っているのに、いまだに高校生の風貌をしているみゆきが『ありえない』のだ。
 いざ、考えてみると簡単な話なのだが、私にはそこまで考えている余裕がなかった。そんな事よりも二人の姿が見えない事に焦りを感じていた。何かあったんじゃないかと不安でいっぱいだったのだ。無関心なフリをして見て見ぬフリをしていても、それは事実で、こうして見え透いた事実さえも見落としていたのだ。
 でも、それより、それよりも私の心に残ったのは千雨の一言だった。
(幽霊になったからと言って幽霊を見えるようにはならない)
 そう。死んでも幽霊には会えないのだ。生きているうちに視認出来ていた者同志なら違うのかも知れないが、そんな事はどうでも良い。私は幽霊が見えない。
「みゆきちゃん。その手を離してくれたら君の会いたかった人に会わせてあげよう」
 千雨の言葉にみゆきの手はどんどん震えを増して来る。ひどく動揺しているようだ。
「あ、会いたい人……会いたい人?」
「わかってるよ。君の未練は一つだろう。香奈ちゃんは何で来てくれなかったんだって。それが聞きたいだけなんだろう?」
「か……なちゃん……」
「長い事この場所に縛られている理由も忘れてしまったのかい? 君は人を殺す為にここにとどまっているんじゃない。復讐なんかどうでもいいんだ。君はただ一人の友達。香奈ちゃんに聞きたい事があったからここにいるんだ。思い出せ! 今、君のしている事は君の意志じゃない! ここに溜まった霊気が干渉しているだけだ!」
 私の首から手が離れる。途端に私は後ろへ思いっきり体を倒して青みがかった空を見上げながら高鳴る心臓と乱れた呼吸を落ち着かせた。
「春乃!」
 千雨は私の体を起こして抱いた肩を揺する。
「あんた……どこで……何してたのよ」
「ごめん! ちょっと手間取っていて。みゆきちゃんを具現化する術式が思った以上に時間がかかったんだ」
「具現化?」
「そう。ここは霊的磁場が強いからそれだけで目に見えない霊力が自然と干渉していたんだ。だからそこに対して葵の力を流し込んで、この中にいる霊をこの世にしっかりと干渉出来るようにしたって事。みゆきちゃんは春乃と波長が合って干渉出来るようになったと勘違いしたみたいだけどね」
 私は抱きかかえられながら何か色々と納得する。見えないはずのみゆきが見えた事も、そしてみゆきが私を自殺志願者と知っていて殺そうとした事も。何より、確かにここに来てから私は自分でも分かるくらい変だった。やけに暴力的な感情が出て来たり、本音を漏らしてしまったりと自分らしからぬ行動をとっていた。
 これが俗に言う霊気に当てられたと言う事か。みゆきも霊体だから私よりももっと受けやすい状態だったのかも知れない。きっとここに溜まっている霊気はあまり良いものではないのだろう。
「ちなみにその霊脈を見つけるのにも時間がかかっちゃってね。まいったよ本当に」
 少しずつ脈が落ち着いて来て、呼吸も安定した私は千雨に抱きかかえられたまま隣に立っているみゆきを見上げる。
 その顔は真っ直ぐ前を見つめていて、そして歪んだ顔からは大粒の涙が溢れていた。
「香奈ちゃん……」
 私はみゆきが真っ直ぐ見つめる方角に顔を向ける。逆さまになった屋上への入り口には葵と手を繋いで立つ一人の老婆が居た。
「香奈ちゃん!」
 みゆきは走り出した。真っ直ぐに、同じく震えながら涙を流す老婆に向かって。
「みゆきちゃん……みゆきちゃん」
「香奈ちゃん!」
 みゆきは老婆に抱きついた。抱きついたと言うよりは縋り付いたような形で、地面に跪きながらその老婆の着物を両手で掴んで泣き叫んだ。
「どうして! どうして来てくれなかったのよ! どうしてよ! 何でよ! 香奈ちゃん! 私、死んじゃったよ! 香奈ちゃんが来てくれなかったから! 止めてくれなかったから死んじゃったよー!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……みゆきちゃん……本当にごめんなさい」
 老婆も泣き崩れて、二人はようやく抱きしめ合った。葵も一緒になって跪きながら何かを囁いていた。
「千雨。全部知ってるんでしょ?」
「うん。知りたいかい?」
 私は肩に回された手を払いのけて上体を起こす。日はすっかり昇っていて、空気にも新鮮さはもうなかった。
「話しなさいよ。話す義務があるんじゃないの? こんな目に遭わせておいて」
 落ち着いた心とスッキリした頭は少し冴えていた。そんな頭が一つの答えを導きだしたのはついさっきの事。
 みゆきが具現化したのは夕方。まだ赤みが差した頃だった。
 霊脈を見つけるのにも、術式にも時間はかかったのかも知れないが、それでも夕方には実際にみゆきと私は出会っているのだからそれ自体は終わっていたはずだ。
 葵はもしかしたら、その後あの老婆を見つける為にどこかへ行ったのかも知れないが、千雨は絶対に手が空いていた。むしろ霊脈を探すのも術式も葵がやったんではないか?
 そう考えると一つの答えが浮かんで来る。
 千雨はわざと身を隠し、私をこんな状況になるまで放っておいた。
 理由は大方、私がまだ死にたがっているのか確かめる為かもしくは、私に死ぬ事に対しての考え方を改めさせる為のショック療法か。恐らくそんな所だろう。どっちかわからないけど、聞く気にもなれないほど下らない作戦だ。どうせ、落ちた所で葵の力かなんか使って助けられたのだろう。
 これは作られた舞台だ。主演はみゆき。私は助演。制作脚本、千雨と葵。友情出演であの老婆って感じ。見事に嵌められた。ドラマチックに演出してこの再会を彩ったのだ。
「さ。早く話してよ」
 私は振り向く。千雨は苦笑いを浮かべていた。その先にはいまだ抱き合って泣き続けるみゆきと老婆。わだかまりは解けたのだろうか。
「春乃は約束を破った事ある?」
「ない」
 約束なんてしない。する人も居ない。
「……そう。まぁあの二人はある約束をしたんだ」
「だからそれをちゃんと言ってよ」
「ははは……そうだね。じゃあしっかりと最初から――――」

 千雨は二人に起きた物事を順序立ててゆっくり説明した。
 みゆきがいじめられていた事は知っていた。そして唯一の友達である香奈ちゃんの存在も知っていた。でも、その先は私どころか恐らくみゆきも知らない話だった。
 香奈ちゃんはいじめられていた。みゆきちゃんが転校して来てから、そして隠れて仲良くしてから。いくら隠れていても、この小さな町では隠しきれなかったのだ。周りにはバレていた。ただ、香奈ちゃんは逆に自分がいじめられている事を友達のみゆきちゃんに隠していた。幸い、イジメは表立って行われるものではなく、更に陰湿なものだった事からその隠し事はバレずに済んだが、それが仇となってしまった。
「多分、言った人はそんな気なかったんだと思うけどね。みゆきちゃんにとっては何よりも大切な事だったんだよ。信じたいから疑うんだ。信じているからこそ疑ったんだよ」
 千雨は悲しげな表情で二人を見つめた。

 ――――香奈はみゆきがウザいらしいよ。

 二人の関係をからかって言った言葉なんだろうけど、それは小さな亀裂を生んだ。それを聞かされたみゆきは一人で悩んだ。今、こうして笑っている友達が実は自分の事が嫌いなんじゃないかという疑いはどんどん膨らんでいく。楽しそうにしていればいるほど全てが嘘に思えてしまった。誰にも相談出来ず、誰も信用出来ない中で唯一の友達が信じられない。
 その苦痛に耐えきれず、みゆきはある行動に出た。
 放課後、香奈の鞄に手紙を入れた。
 『私、もう耐えきれない。もう無理。ごめん。私、死ぬね。夜明けにこの大嫌いな学校で飛び降りてやろうと思うんだ。誰にも言わないでね。誰かに言ったら直ぐに飛び降りるから。でも、香奈ちゃんが止めに来てくれたら私は死なない。香奈ちゃんが止めるなら死ねるわけない。香奈ちゃんが止めてくれたら。私はもう少し頑張ろうと思うよ……だから、来てね』
 手紙の内容は香奈に縋るようなものだった。死ぬと言う予告ではなく、止めてくれという願いの手紙だ。
 友達を信じて。信じたくて起こした行動。一方的な約束。もちろん、その約束は守られると信じていた。疑っても疑っても疑いきれないのは、やはり信じていたからだろう。唯一の友達。
 親友とも言える存在を。あの楽しい時間が嘘じゃなかったと。
 願うんじゃなくて信じたんだろう。
 ……でも、その約束が守られる事はなかった。
 朝方までこの屋上で待ったみゆきは誰もいないこの学校で初めて見たこの朝日に彩られた綺麗で大嫌いな町の風景をその目に焼き付けて、頭から地面に叩き付けられた。
 香奈は……来なかった。いや、来れなかった。
「交通事故に遭っていたんだよ」
 千雨は顔を歪める。私の目からは何故だか涙が溢れてしまった。
 香奈は学校に向かっていたのだ。家で開けた鞄に入っていた手紙を読んで直ぐに家を飛び出していた。脇目も振らずに全力で走った。そのまま行けば朝方どころか夜が更ける前に辿り着いたであろう。
 ただ、辿り着けなかった。
 正確には三ヶ月後には学校に来れたのだが、香奈が車に轢かれて意識を失っている間にみゆきは自らその命を絶っていた。
 どれだけ悔やんでも時間は戻らなければ、その事実も覆らない。香奈は自分が殺したと自分を戒めながら、そのまま卒業していった。
 そしてその出来事のおかげですっかりとイジメは止んでいたのも香奈を追いつめた。
 もし、代わりに自分が死んでいればみゆきへのイジメが無くなっていたんじゃないかと考えれば考える程、みゆきが死ぬ必要なかったと感じた。
 みゆきの居ない学校で穏やかな時間は瞬く間に過ぎて行き、やがて香奈はこの町を去る。
 この学校に親友が止まっている事も知らずに。そしてみゆきもまた、幽霊としてしっかりと自我が戻った頃にはもう学校は生徒数の減少から廃校になっていた。
 約束はすれ違ったまま。二人は破った、破られたと勘違いしたまま七十年も時が経ってしまった。二人ともその事をずっと胸に抱いたまま、みゆきはそれでも香奈を嫌いになれず、香奈もまたずっと心の底でみゆきに謝り続けていた。
「小娘!」
 千雨から真実を聞き、涙を流しながら二人を眺めていると、老婆を握ったままの葵が私を手招いた。
「春乃。行きなさい。もうすぐみゆきちゃんに会えなくなる」
 千雨は私の背中を優しく叩くと、こちらを向いている二人の方を見た。
 どうやら長年つっかえていたものが全て解けたらしい。二人は目を真っ赤にしながら微笑みを浮かべていた。
 私は立ち上がり、老婆とみゆきの前へと立つ。跪いたままの二人を見下ろす形が何となく嫌で私もそこで膝をついた。
「春乃。ごめんなさい……ごめんなさい」
 みゆきはまた涙を流しながら私に頭を下げる。老婆はその背中を抱いていた。
「いいよ。話は全部聞いたから。あんたのせいじゃない。何か変な霊気が溜まってるんでしょここ。私もちょっとあてられたみたいだし。まぁそう言う事だから気にしてないよ。それより、まぁ何て言うか……一緒に居てくれてありがとう。おかげで楽しかった。こんな暗い学校で寂しい思いをせずに済んだのはみゆきのおかげだよ。後、見せてくれた景色、すごく良かった。ごめんね。私、そういうの素直じゃないからさ。だからもう顔上げてよ。もう時間ないんでしょ? 折角親友に会えたんだから。七十年も思い続けた人なんでしょ? ほら早く顔上げて!」
 私が頭を撫でるとみゆきはゆっくりと顔を上げて、涙を流しながら笑った。少しずつその姿が薄く透き通りかけている。
「ありがとう。私も楽しかった。素直じゃない春乃はとっても可愛かったよ? ありがとね。葵さんも。向こうに居る千雨さんには春乃からお礼を言っておいてね。香奈ちゃん。会えて嬉しかった。私の方こそごめんね。何も気付いてあげられなくて。ごめんね……ごめんね」
「みゆきちゃん……いいの。いいのよそんなの。私の方こそごめんなさい。本当にごめんなさい」
 二人は手を繋いでお互いに頭を下げる。やがてみゆきの姿がほとんど透き通るとスッと繋いだ手が通り抜ける。二人は見つめ合うと互いに笑った。
「香奈ちゃん……大好き」
「みゆきちゃん……私もよ。私も大好き」
 みゆきは私に振り向く。その透き通る顔は優しく微笑んでいた。
「もし、生きてる間に春乃と会えてたらきっと友達になっていた気がする」
「……そう? かしら」
 みゆきはクスクス笑ってその姿を輝かせながら煙のように消えていった。

 ――――ホント、素直じゃないんだから。

 最後に言った言葉はハッキリと私の耳に残った。
「うっさい……バカみゆき」
 声はきっと届かない。もう居ないみゆきに呟く言葉も結局、本心じゃないのがなんだか自分らしくて笑えた。
「みなさん。本当にありがとうございました」
 老婆は深々と頭を下げた。
「礼など良い。仕事じゃからな」
 葵は強く頷く。私は言葉が出なかった。
 目の前で頭を下げている老婆の体が、みゆきと同じように透けていた。
「ちょっと……これって」
「彼女は死んでるんだ」
 千雨はいつの間にか私の後ろに立って頭の上に手を置いて来た。私はそのまま振り返りも振り払いもせずにただ、目の前の光景から目が離せなかった。
「香奈ちゃんは数年前に亡くなっている。その後はこの町を彷徨う浮遊霊になっていたんだ。どうしても謝りたくてずっとみゆきちゃんを探してたんだよ。霊同士がお互いを視認出来るものじゃないと知らずにね」
「全く苦労したわい。あんな山の奥にある川にいるんじゃからな」
 葵はほとんど姿が透き通っている老婆の手をまだ握っていた。
「葵はね。霊に触れる事が出来るんだ。そして手の平同士を会わせればその姿を具現化出来る。弁離士のランクが上がる条件の一つだね」
 千雨が言うと葵は胸を張り、フンと鼻を鳴らした。
「春乃ちゃん。私もみゆきちゃんと同じ気持ちです。生きているうちに会ってみたかった」
 本当にありがとう。みゆきちゃんを救ってくれて。私を救ってくれて。と言葉を残してその姿は消えていった。
「小娘。どうじゃ。こんな芸当、貴様には出来まい」
 葵は立ち上がり、膝を払った。そんなもの時空を超えた時から知っているというのに、こいつは何が何でも上に立ちたがるんだな。
「春乃。今回は大変だったね。まぁこれで二人同時に成仏出来たし。ね?」
「なにが『ね?』よ。こっちは散々よもう」
 私も立ち上がってあちこちの汚れを払った。
 あの老婆は浮遊霊と言っていたが、と言う事はみゆきを助けるついでに成仏させたと言う事なのだろうか。地縛霊専門なのだから。それともこの町に縛られた浮遊霊という形でそれも地縛霊に入るのだろうか。
 そんなに簡単な話じゃない。なるほど、確かに知れば知る程わからなくなる。定義付けと言うのは本当に難しい。
 ただ、私はそんな事よりも確かめなくてはならない事があった。
「ねぇ千雨。さっき言ってた事だけど」
「ん? なんだい?」
 私はスカートを払いながら千雨と向き合う。
「その、幽霊になったからと言って幽霊を見れないって」
「うん。そうだよ。今の時点で見えていなければ死んでも見れない」
「じゃあ、私が死んでも幽霊に会えるわけじゃないのね?」
「そうなるね」
「じゃあ成仏した霊は何処へ行くの?」
「どこへも行かん」
 葵がズイッと間に割って入ってきた。そして私を見上げたままその憎たらしい口を開く。
「ただ消えるだけじゃ。存在がなくなる。無に帰すと言う訳じゃな」
「そう……」
 私は顔を上げて横を向き、眼前に広がる景色に溜め息を吐いた。
 まいったな。今度は死ぬ理由も無くなってしまった。
 ほんの小さな願望にも似た希望がいよいよ無くなると、私はどうしたらいいのだろう。
 生きる理由は今もない。でも、バランスを傾けていた『もしかすると』が無くなった以上、死んだ所でどうしようもない。
 なら、私はどうすればいいんだろう。いよいよ、私の行く末も分からなくなってしまった。
「さぁ。この町であともう一件やったら終わりだ。春乃。もうすぐだよ。その悩みもきっと解決する」
 目の前で笑う千雨に力なく頷く。私はどこまでこの男の思い通りになっているのだろうか。
 でも、どうでもいい。今は何もかもがどうでも良かった。
 答えなんかもう……いらない。私はもう空っぽだ。
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