恋愛下手の恋模様

私はそのまま補佐が席に戻っていくのだろうと思い、見送るために両手を前で揃えて立っていた。しかしなかなか彼の口から去り際の言葉が出ない。それどころか、彼はそのまま壁に背を預けると、肘に手を添えてコーヒーカップに口をつけた。

――あれ、戻らないの?

私は困惑しながらも、彼の流れるような所作と横顔の滑らかなラインを盗み見る。近すぎる補佐との距離に、私の心臓は痛いくらいにどきどきしていた。彼が例のことを口にするかもしれないと身構えつつも、嬉しすぎて気持ちが昂りそうだ。

ほんの少し前まであんなに緊張していたのに――。

私は自分に苦笑しそうになった。その表情をごまかすために慌てて目を伏せ、コーヒーを口に含んだ。途端に後悔する。自分が猫舌であることを忘れていた。

「あつっ…」

思わず洩れた声に、補佐が私を見た。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫です。猫舌なのに、つい……」

私は眉をしかめながら答えた。

補佐はくすりと笑うと、目元を緩ませた。

「岡野さんは大人でしっかりしている印象だったから、ちょっと意外だな。猫舌っていうのは」

「……私、全然しっかりなんてしていません」

「そんなことないでしょ」

笑みを浮かべたままそう言うと、補佐はふっと口を閉じた。

何かを考えているように見えるその横顔に、私は落ち着かない気持ちになった。

ランチの時にはもっと会話が弾んだものなのに――。

私は手の中のコーヒーカップに目を落とした。

昨日のことは、遼子さんとの会話で一応の誤解は解けたけれど、まだ少し心に引っ掛かっている。そのせいもあって、せっかく会えた補佐に素直な気持ちで話しかけることができない自分がもどかしい。

彼がまだここにいるのであれば、私が先に戻ろう――。

「補佐、あの、お先に……」

失礼します――。

そう続けようとした時、補佐が口を開いた。

「あのさ」

ついに昨日のことを話そうとしているのか――。

私は緊張した。

「――はい」

ひと呼吸程の間をおいて私が返事をした時だった。

宍戸が顔を覗かせた。彼は補佐の顔を見ると、やけにはっきりとした口調で朝の挨拶の言葉を口にした。

「おはようございます!」
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