恋愛下手の恋模様

橋本さんが帰った後、ロッカールームに残っているのは私だけだった。疲れがさらに加わったような気がして、のろのろと帰り支度をする。

こんな時には実家の晩ご飯が恋しくなったりもするが、一人暮らしの自由さには代え難いと思ったりする。

「適当にコンビニご飯でいいや」

一人つぶやき、私は廊下に出た。エレベーター前に着いてボタンを押し、階数表示が動くのをぼんやりと眺める。柔らかな音がして扉が開く。誰もいない箱の中に乗り込むと、指を伸ばして「閉」のボタンを押した。

扉がゆっくりと閉じ始めた時、肩から滑り込むようにして乗ってきた人がいた。その人は私に気がつくと、驚いたように言った。

「岡野さん?」

声をかけられて私もまた驚き、狼狽えた。

「補佐……。お疲れ様です」

「今帰り?」

「は、はい……」

胸の奥がトクンと鳴る。私は顔を隠すように会釈して、奥の方へと移動した。

今朝だけでなく、今もまたこうやって彼に会えて、とても嬉しかった。けれど、周りと上下をぐるりと囲まれたこの箱の中は給湯室以上に狭く、彼との距離があまりにも近すぎて息苦しかった。心臓の音だけでなく、息遣いまでもが聞こえてしまいそうで、呼吸ひとつするのにも慎重になってしまう。おまけに、倉庫での一件も緊張感をさらに上乗せする。私は全身を強張らせて、バッグの持ち手をギュッと握りしめた。

そんな空気が伝わったのだろう。補佐が苦笑を浮かべて私を見た。

「俺といると、そんなに緊張する?」

「え、いえっ。そんなことは……」

私は弾かれたように顔を上げて否定した。

「あるよね。今朝給湯室で会った時も、俺の前ではすごく緊張していたよね」

そう言って彼は、ますます苦い顔をして笑う。

「違うんです。いえ、確かに緊張しますが、良くない意味での緊張ではなくて……」

「ごめんね。エレベーターが下に着くまで、もう少しだけ我慢してもらえる?」

補佐の声に拗ねたような響きを感じ取り、私は慌てた。

「あの、本当にそういうのではなくて……」

「大丈夫だよ。俺は全然気にしていないから」

私の緊張の理由はただ一つしかない。

あなたのことが気になっているから――。

けれど、それを当の本人には言えなかった。とは言え、このまま誤解されたままなのは嫌だった。なんと言えば納得してもらえるのかと、眉根を寄せながら考える。

すると補佐が突然、口元に拳を当てるようにしながら謝った。

「ごめん」

私は補佐の急変した態度に戸惑った。

彼は目元を優し気に細めて私を見ていた。

「つい意地悪したくなってしまって」

「意地悪……?」

私は聞き返し、何度も目を瞬かせた。

補佐の顔に照れたような表情が浮かんだ。しかしそれはすぐに消えてしまう。

「なんでもない。こっちの話。……ところでさ」

補佐の声音が変わった。
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