恋愛下手の恋模様

緊張事態


乗り場に待機していたタクシーは1台だけだった。

すでに深夜だったから、利用者がピークの時間帯だったらしい。タクシーを待つ人は他にはいなかったが、これを逃したら次はいつ乗れるか分からない。

どうしようかと考えて、私は上司である補佐に順番を譲るべきだと思った。

しかし、先手を打つように彼は言う。

「岡野さんが先に乗って」

「いえっ、補佐がお先にどうぞ」

「君が何を思ったのかは想像がつく。だけど、こんな遅い時間に女性を一人残して、男の俺が先に帰るだなんてことは、あり得ないんだからね」

「でもここはやはり、立場が上の方から……」

そんなやり取りをしていたら、こちら側に近づいてくる男女の姿が目に入った。タクシーだ、と言っているのが聞こえてくる。

補佐もその二人に気がついたようだった。私の背に軽く手を当てて、早口で言った。

「間を取って、一緒に乗って行くっていうのはどう?ちなみに俺は鳥居が丘に住んでる。岡野さんはどの辺?」

「え、あの…」

私はためらった。

「今日会ったばかりの男と一緒に乗るのに、抵抗があるのは分かるんだけど……」

そういうわけではなく、なんだか恐れ多くて……。

そんな本音が口を突いて出そうになったが、私はそれを飲み込んで補佐に頭を下げた。

「では、ご一緒させてください。本町経由で」

「もちろん」

彼はほっとしたように笑った。

「先に降りるのは岡野さんだから、俺は奥の方に乗るね」

そう言って先にタクシーに乗り込んだ補佐は、ドライバーに行き先を伝える。

私はやや緊張しながら、その隣に腰を下ろした。

補佐はシートに背中を預けると、腕を組んで目を閉じた。

それを邪魔しないように口を閉ざして、私は窓の外へと目を向ける。

車のエンジン音と車内に流れるラジオの音が、静けさを一層際立たせた。深夜独特のとろりとした空気と車の振動がとても心地よく感じられて、お酒の酔いもあって眠気に襲われそうになる。

車が交差点を左折した時だった。補佐の腕が、偶然私の肩に触れた。

そこから彼の体温を感じて、私はハッとした。それと同時に、胸の奥がキュッと鳴ったような気がした。それは過去にも経験したことのある感覚だったと思うが、うまく思い出せない。

その正体が気にはなったが、ゆっくりと考えている時間はなかった。私のアパートはもう目の前だ。

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