繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
「そんなことない。そんなことないです。遥希さんの生き方がよかったのかどうかは私にはわからないけど、そのことで猪川さんが自分の選びたい道を選べないなんてことはないはずです」

 ハッと彼は顔をあげる。

「猪川さんはたくさんの方に支えられて生きて来られたんですよね? 私には想像もつかないぐらいの苦労をされてきたんだと思います。だから、今までのことは感謝して、手放せばいいと思います」
「手放す?」
「はい」

 奈江は力強くうなずく。

「遥希への気持ちを手放すのか……」
「遥希さんにこだわってるのは、猪川さんだけのような気がするんです。どうしても、私にはそう思えるんです。吉沢さんは猪川さんをフランスへ連れていってくれたんですよね? 学ばせたいことがあったからですよね? その気持ちを無視して、本当は遥希さんを連れていきたかったんだろうなんて……、そんなふうに思わなくてもいいと思うんです」

 秋也の顔が歪むから、奈江は正義心を振りかざしたことに気づいて後悔する。

「ごめんなさい。私、猪川さんを傷つけたくてこんなこと言ってるわけじゃなくて……」

 両手で顔を覆う。

 嫌われただろう。秋也が触れてほしくない傷に触れてしまった。何がわかるんだって、怒られても仕方ないようなことを言ってしまった。

「早坂さん、泣かないで」
「泣いてないです」

 頭を振る奈江の手首をそっとつかんで、秋也は手をはずさせる。

 瞳に浮かぶ涙のせいで、彼の顔が見えない。でも、悲しんでいるのはわかる。

「泣いてるよ」

 彼の指がこぼれ落ちる奈江の涙をぬぐう。

「泣きたいのは、猪川さんですよね……? 傷つけてごめんなさい」
< 133 / 172 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop