繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
 すぐにスタート画面に切り替わってしまうから、一度、アプリを落とす。そうして、ふきんで手をぬぐうと、バッグから名刺入れを取り出す。

 その中から、一枚の名刺を見つけ出すと、ふたたび、アプリを立ち上げた。

「やっぱり……同じ」

 名刺にある会社のロゴと、アプリのロゴがまったく同じなのだ。

 奈江は名刺をひっくり返し、名前を確認する。

『株式会社ジェンデ 代表取締役 猪川秋也』

 間違いなく、そう書かれている。

「だから、このロゴ、どっかで見たことある気がしてたんだ……」

 ぽつりとつぶやいたとき、突然、スマホが震えて、奈江は驚いた。画面に、電話の通知が出る。秋也だった。

「はいっ、早坂です」

 あわてて電話に出ると、秋也がくすりと笑う。

 焦って出たことも、ワンコールで出たことも、彼にとっては愉快な出来事なのかもしれない。そう思えるぐらい、彼はなんでも楽しめる穏やかな人だ。

「猪川です。お久しぶり」

 落ち着いた声に、胸が跳ね上がる。いま、気づいたけれど、秋也の声は渋くて、安定感がある。少し会わないうちに、彼への思いが増幅したみたいにどきどきした。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「変わらず、元気だよ。早坂さんも元気そうだね。このところ、よく見かけるよ、横前駅で」
「えっ、そうなんですか?」
「最近は、前より早い時間の電車に乗って帰るようにしてるからかな。向かいのホームにいるから、今度探してみてよ」
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