Runaway Love
 ひとまず、荷物を自分の部屋に置き、あたしはキッチンへ入る。
 来たからには、夕飯くらい作らないと。遊びに来た訳ではないのだ。
 冷蔵庫を見やり、献立を考えていると、母さんがリビングから声を張り上げて言った。
「そうそう、茉奈。この前、”けやき”さんから電話があってねぇ」
 会話が成立しないので、リビングもキッチンも、ドアは開けっ放しだ。
 廊下を挟んでも、お互いに声が聞こえるのは、慣れと、母さんの地声の大きさか。
 不意にそんな事を言い出され、あたしは、キャベツを持っていた手を滑らせてしまった。
 丸々一個、作業台に墜落し、ドン、という、なかなかの音が響く。
 慌てて拾うと、リビングから、何やってんの、と、非難めいた声が聞こえたが無視した。
 それに構わず、母さんは、勝手に話し出す。
「何か困った事があれば、いつでも連絡してくれ、って。まあ、良くしてくれてねぇ。アンタ、今度、あのコに会ったら、お礼言っておいてよ」
 ――……”あのコ”。
 それが、誰を指しているのかは、すぐにわかった。
 母さんは、そのままリビングでテレビを観始めたようで、うっすらと聞こえてくる騒がしいBGMで食事を作り始めた。
「母さん、何か食べたいものある?」
「いいわよぉー!アンタ、簡単にできるものでいいからね!」
 それだけ叫ぶように返事をして、母さんはまたテレビに戻る。
 結局、冷蔵庫の中に入っていた肉とキャベツで回鍋肉と、簡単に味噌汁と作り置きのじゃがいもの煮物をテーブルに並べた。

「母さん、そっち、持って行こうか?」

「ああ、いいわよ。アタシが行くから!」

 そう言うと、よいしょ、と、掛け声が聞こえる。
 少し待っていると、ゆっくりと足をひきずりながら、母さんはリビングに入って来た。
 そして、並んでいる皿を眺めると、何だかうれしそうにしている。
「……どうかしたの」
「いや、何か、アンタも一人前にできるようになったんだねぇ。いつ、嫁に出しても良いわね」
「――勝手に出さないでよ。あたしの人権、尊重してよね」
「あら、誰か、いい人いるのかい?」
「――……別に、そういう意味じゃないし」
 素直にうなづけないのは、今の状態を正直に言うには、複雑すぎる上――少しだけ後ろめたいから。
 そんなあたしの心境にも気づかず、母さんは、上機嫌で夕飯を食べ始めた。

「茉奈、アンタ、洗い物は後で良いから、食べちゃいなさいな。冷めちゃうでしょうが」

 できるだけ、マスクを外したくなくて、洗い物を先にしていると、母さんが見とがめ、そう言ってきた。
「――でも、気になるから、先に片付けるわ」
「食事は、温かいうちに、だよ」
「わかってるってば」
 ――融通か利かないのは、母さんに似たんじゃないの。
 心の中でそうボヤくが、キリが無いので、それ以上はやめた。
 フライパンだけを洗い終え、残りは後回し。
 母さんの向かいに座り、そっと、マスクを取る。

「……アンタ、何、その顔」

「……ちょっと、ぶつけたの」

 幸い、頬の腫れはだいぶ引いて、少しの青あざと膨らみだけになっていた。
 視線をそらせば、母さんはあきれたように言う。
「何やってんのよ、まったく。……ホント、どこか抜けてるんだから」
 まさか、殴られたとは思ってもみないだろう。
 あたしの言い分を、素直に受け取ったようだ。
 ――まあ、そう思うくらいには、あたしは昔から、いろいろドジを踏んで、ちょこちょこケガをしていたものだから、仕方ない。
「……気にしないでよ。もう、治りかけだし」
「気をつけなさいよ。嫁入り前の娘が」
「……だから、勝手に決めないでよ」

 ――奈津美から手が離れたといって、あたしに焦点を合わせるな。

 イラつきかけたが、ご飯を口にして、一緒に言葉を飲み込んだ。


「ごちそうさん、中々上手にできてたじゃない」

「――そう」

 上機嫌のまま、母さんはお茶を入れた湯呑を持って、リビングに向かう。
 ここ数日で、そのくらいの技術は身につけたようだ。
 安定していたので、声はかけないでおく。
 そして、洗い物をしていると、不意にスマホが振動する音が聞こえ、ギクリ、と、反応してしまった。
 ――別に、岡くんて訳じゃない。
 そう自分に言い聞かせ、手を止めて、テーブルに置いていたスマホを確認する。

 ――本、借りた分は終わりました。

 一瞬、何の事かと考えたが、相手が野口くんだと気づき、大きく息を吐いた。
 でも、そうか。もう終わったんだ。
 さすがに、あれだけの本を持ってるだけあるわ。
 あたしは、少し考え、返事を送る。

 ――月曜日、続き持っていこうか?

 すると、すぐに返事が来た。

 ――お願いします。

 淡々としたやり取り。けれど、あたし達らしい。
 ほんの少しだけ、気分が和らいだ。
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