Runaway Love
 翌朝、目が覚め、見慣れない、見慣れた天井に一瞬悩む。
 夢かと思ったが、実家に帰っていたんだと思い出し、あたしはゆるゆると起き上がった。
 少々の家事手伝いで、昨夜はいつもよりも早く眠ってしまった。
 最近、眠れない事ばかりだったけれど、実家の安心感というのもあったんだろうか。
 あたしは、階下(した)に下り、キッチンに向かう。
 壁にかかった時計を見やれば、六時半。
 休日にしては早いが、母さんの分の朝食も作らなければならないので、ちょうどいい。
 冷蔵庫から、卵を二個拝借して卵焼きを作り、後は、昨日の味噌汁を温める。
 そして、パックのままの魚を眺めていると、
「何だ、早いわね。まだ寝てても良いのに」
 母さんがそう言いながら、壁をつたい、キッチンに入って来たので、あたしは眉を寄せた。
「寝てるのは、母さんの方でしょ。まだ、まともに動けないのに」
「大丈夫よぉ、歩き方は慣れてきたし。動かないと、老化が早まるじゃないの」
 あたしの言う事などお構いなしに、母さんは冷蔵庫を開けて、サバの切り身を取り出した。
「コレと、簡単に野菜炒めにでもしときなさいな。朝から疲れなくてもいいから」
「――わかった」
 母さんの意見にうなづき、あたしは、朝食を作り始めた。

 簡単に朝食を終えると、部屋の片づけと掃除。
 やはり、動けない分、やり残したところが多く、半分大掃除のようになってしまった。
 そして、昼食の準備をし始めた辺りで、インターフォンが鳴る。
 また、近所の人達か。
 そう思い、画面を見て返事をしようとして、固まった。

『こんにちは。じいちゃんからの差し入れ、持ってきました』

 不自然に鳴り始める心臓を押さえ、あたしは、無言のまま玄関に向かい、ドアを開けた。

「――……え……ま、な……さん?」

「……様子見がてら、泊まったのよ」

 視線をそらしたまま、そう言うと、岡くんは珍しく気まずそうにあたしを見た。
「……あ、あの……」
「差し入れ、ありがとう。おじいさんに、よろしくお伝えして」
 あたしは、岡くんが差し出そうとして止まった手を見て、持っていた袋を半ば無理矢理取り上げた。

 ――用は済んだでしょう。
 ――……早く、帰って……。

 じゃないと――余計な事を口走りそうで怖い。

 けれど、岡くんは動こうとしない。
 あたしが、いぶかし気に顔を向けると、目がしっかりと合ってしまった。

 その瞬間、心臓が掴まれたような感覚。

 ――真っ直ぐな、その視線から、逃げられない。

「茉奈さん」
「――……な、に……」
「具合、悪いんですか」
「え」
 あたしは、ようやく、彼の視線がマスクに向かったのに気がつく。
「――か、風邪気味、ってだけ。……万が一、伝染(うつ)したら、マズいじゃない。……特に、奈津美には……」
「そうですね――」
 広がらない会話に、行き場を失う。
 ――今まで、どれだけ、岡くんが気を遣って話してくれていたのか、思い知らされる。
「そ……それじゃ……」
「――茉奈さん」
「あら、将太くん!ごめんなさいねぇ、気が利かなくて。茉奈、何してんのよ。上がってもらいなさいな」
 せっかく追い返そうとしたのに、リビングから顔を出した母さんは、あっさりと妨害してくれたのだった。
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