Runaway Love
 タクシーを降りて、アパートの階段を上りながら、あたしはため息をついた。
 ――次から次へと、どうして、あのコは……!
 奈津美の、あっけらかんとした報告に、イラつきは収まらない。
 あたしが、退職するかどうかの瀬戸際に、あっさりと退職して、家を手伝うなんて言い出すあのコを、理解したくはなかった。
 以前からの予定なら、まだしも――こんな状況になって、そんな風に簡単に言ってのけるのは、先の事を考えていない証拠だろう。
 親になるんだから、もう、それじゃあ、やっていけないだろうに――。

 これから先を考え、再び、奈津美に振り回される未来が見えた気がして、あたしは気が滅入った。


 翌日、ロッカールームに入ると、相変わらずの視線に、心の中では苦笑いが浮かぶ。
 あたしは、軽く会釈だけして、自分のロッカーの前に立ち、止まる。
 扉には、何も貼られていない。
 ――もしかしたら、何か、あったんだろうか。
 あたしは、貴重品バッグと、お弁当を持つと、ロッカールームを出た。

「おはようございます」

「お、おはよう、野口くん」

 ロビーで、あたしを待っていたのか、野口くんが手を軽く上げて、こちらにやってきた。
「昨日は、大丈夫でしたか」
「ええ、ありがとう。妹は、診察でOKが出たら、今日退院だって言ってた」
「――そうですか。良かったですね」
「――……ええ、そう、ね」
 すると、野口くんは、あたしをうかがうように、のぞき込む。
「……何か、ありましたか?」
「え」
「――ちょっと、落ち込んでます?」
「……そんな事、無いから」
 あたしは、無理矢理笑ってみせると、エレベーターホールを通り過ぎる。
「ま……杉崎主任、エレベーター使わないんですか?」
 思わず名前呼びをしそうになった野口くんを、あたしは、苦笑いで振り返る。一応、会社という自覚はあるようだ。
「最近、階段なの。野口くんは、エレベーター使って?」
「――オレも、そっち行きます」
 そう言うと、彼は、あたしの後について、階段を上り始める。
 体力は意外とあるようで、少々息が上がって来たあたしを、心配そうに見やる。
「……大丈夫ですか?」
「――……アラサー女の体力……舐めないでよね……」
「自虐ですか」
「の、野口くんこそっ……大丈夫なの」
「オレ、弟妹の面倒見てたんで、基礎体力だけはついてるようです。アイツ等がチビの頃、とんでもないレベルで走り回ってたの、追いかけ続けてたんで」
 ――見くびっていた。ちょっとだけ、くやしい。
 あたしは、そう、と、だけ言うと、足を進める。
 ようやくたどり着くと、大きく息を吐いた。
 毎日の事になりつつあるが、未だに体力はつかない。
「――茉奈さん」
「え?」
 あたしが見上げると、野口くんは、そっとあたしの額に触れる。
「な、何?」
「汗、すごいですけど」
「え、あ、気にしないで。暑くなってきたしね」
 思わず、臭いが気になってしまい、少しだけ距離を取ろうとすると、彼は手を握ってきた。
「の、野口くん」
「何で、離れようとするんですか」
 ふてくされたように言う彼を、あたしは見上げる。
 ――言わなきゃ、わからないか。
「……あ、汗臭いかと思って……」
「え?」
 キョトンとする野口くんは、一瞬、考え込み、ようやく合点がいったらしい。クスリ、と笑い、あたしの首元に顔を近づける。
「のっ……!」
「――いい香りですけど?」
 そう、耳元で言うと、彼は軽く耳たぶを噛んだ。
「――っ……!!」
 思わず、声を上げそうになり、あたしは両手で口をふさぐ。
 見上げれば、少し赤い顔の彼は、片手でそっとあたしを抱き込んだ。
「だから、そういう表情(カオ)、マズいんで」
「――だっ……誰のせいよっ……!」
 すると、すぐにあたしを離し、野口くんは笑う。
「――オレ、ですかね」

 ――その言葉に、一瞬、固まる。

「茉奈さん?」
「――……さ、先に行ってて?ちょっと、落ち着いてから行くから」
「そうですね。お願いします」
 野口くんはうなづくと、先に廊下を歩き出す。
 あたしは、そのまま壁に背を預け、顔を上に向けた。

 ――早川も、同じ事言ってた。

 ――”俺だな”。

 思わず、脳裏に浮かんだ笑顔に、胸が少しだけ痛んだ。
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