Runaway Love

65

 動揺を隠しきれないまま、あたしは、テンション高く早川と話す沢くんを見やる。

 ――……夫婦って……。

 思わず、プロポーズされた事を思い出し、複雑になってしまった。

 ――ただの、仲の良い同僚だ。

 まさか、保留中です、とも言えず、二人で曖昧に笑って否定したが、アレで良かったんだろうか。
 ……まあ、早川から、そう言ったんだから、あたしは口を閉じておこう。

 昨日の続きの引っ越しを、どうにか昼前に終了し、午後からは全員で以前の部屋を掃除。
 何も無くなった部屋を見やり、大阪支店のみなさんは、ほんの少しだけさみしそうな表情を見せていた。
「――ここには、だいぶ、世話になったなぁ」
 支社長がそう言って、窓の外を見やる。
 だが、すぐに、にこやかに振り返って言った。
「まあ、デカくなったと思えばええか、なあ!!」
 そう言いながら、部屋を後にする。
 全員が出終え、一番最後に出たあたしは、何となく振り返ると、経理担当の古川主任が、深々と頭を下げているのが見えた。

 ――……ああ、やっぱり、さみしいのよね。

 すると、顔を上げた彼と目がしっかりと合い、一瞬たじろぐ。
 眼鏡の奥の瞳は、何だか、あたしを見定めているようで、居心地が悪い。
 あたしは、頭を軽く下げると、急いで階段を下りた。
「ま……杉崎、どうかしたか」
 ビルの出入り口で待っていた早川は、下りてきたあたしを見やり、眉を寄せる。
 名前を呼ぼうとしたので、あたしは、ひとにらみして返した。
「……別に。……それより、口、滑らせてないでしょうね」
「――……わかってるって」
 そして、新しい場所に到着すると、昨日並べた、新しく入った机や棚を、部署ごとに割り振り、位置決めをする。
 部屋はワンフロアながら、かなり広い。
「ああ、経理さんはそっちな」
「――え」
 支社長にそう言われ、指をさされた先を見やると、一つだけ部屋が区切られていた。
「一応、金庫もある事やしなぁ。カギかかる部屋があった方がええやろ」
「――は、はあ……」
 思わず目を丸くする。
 元々、そういった造りらしく、横長の部屋を見やれば、大体二十畳ほど。
 まあ、実質三人しか入らない予定だから、そう狭い訳ではないだろう。
 中には、既に机が向かい合わせに四つ置かれ、部屋の隅には大型の金庫が一つ鎮座していた。
 他には、大き目の書棚やラックがあり、中はまだ空っぽだ。
「じゃあ、持って来たヤツ、それぞれ片付けて。今日はそれで(しま)い。明日から、本格的に指導始めるからなあ!」
 支社長の音頭で、各部署ごとに、段ボールを運び、中からいろいろなファイルだの備品だのを取り出し、片付ける。
 あたしは、経理、と書かれた箱を持ち、部屋の中に入ると、既に古川主任が指示を出しながら片付けを始めていた。
「――ああ、杉崎主任、その箱はこちらに片付けてください」
「あ、ハ、ハイ」
 少々威圧的な態度に圧倒されつつも、うなづく。
 ここでは、あたしも新人同様なのだ。
 他には若い女性社員が二人。
 どうやら、それだけらしい。
 ――まあ、そこまで負担がかかるとは思えないけれど。
 三十分もせずに、あらかた片付くと、古川主任が全員を金庫の前に呼んだ。

「――金庫の鍵は、基本的に私が預かる事になります。番号は、追々(おいおい)教えますが、最初のうちは仕事を覚える事だけに集中してください」

 そう言って、彼は数字を素早く打ち込む。
 目で追えば、番号は分かるが――たぶん、今日のうちに変えられるだろう。
 部長も、大野さんも、定期的に金庫の番号は変えていた。
 それが、ウチの常識なのだ。
 そして、金庫を開け、中を確認。
 中は二段。下に引き出し。
 シンプルなそこには、まだ、何も入ってはいない。
 上の段に小金庫があったので、おそらく、通常はこっちを使用するのだろう。
 古川主任は、予想通り、それを取り出し、女性二人に見せた。
「通常は、この小金庫ですべて賄います。多額の現金が必要な時は、先に申請してもらい、私の方で銀行から都合をつけますが、それはあなた達が請け負う仕事ではありません。伝言があった場合に、私に連絡をください」
「「――は、はい」」
 二人は、緊張気味にうなづき、返事をした。
 ――どうやら、威圧感を覚えるのは、気のせいではなかったようだ。
 そして、そのまま、仕事内容の説明をし始めた彼を、あたしは後ろから見つめる。
 指示は的確。たぶん、かなり有能なんだろう。
 ――でも、新人相手に、機械的に話すのはどうかと思う。
 事実、二人、距離を少し置き、ただうなづくばかりだ。
 こんな説明の仕方で、伝わっているかは怪しいところだろう。

「――まあ、最初のうちは、ミスせずに仕事を覚える事だけに集中してください。少なくとも、経理部(ここ)に配属されるという事は、資格があるという事でしょう。失望だけはさせないように」

 あたしは、その態度に――言葉に、思わず口を挟んでしまった。
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