Runaway Love
 それから、早川をその場に待たせ、部屋の隅に置いておいたスーツケースの中から、あたしは持って来た芦屋先生の文庫本を取り出す。
「――あたし、ずっとファンなの」
「へえ、懐かしいな」
 一冊見せると、早川はうれしそうにそれを受け取って眺めた。
 ――ああ、本当に好きなんだ。
 目を見ればわかる。
 ――野口くんも、同じだったから。
「俺は実家に少し残ってるけど……大体はガッコから借りてたからなぁ……」
「学校の図書室に置いてあったの?」
「ああ、高校の時な。司書のセンセがファンだったせいか、ラインナップは完璧だったぞ」
 ククッ、と、笑いながら、早川はあたしに本を返した。
「そっか。――ウチは、小説はそんなに無かったかしら。……まあ、でも、蔵書数は多かったみたいだし」
 三年間通っていても、飽きる事は無かったのだから、それなりに充実していたのだろう。
「へえ。高校時代のお前って、やっぱ同じ感じなのか?」
「え?」
「真面目な委員長タイプ?」
 あたしは、一瞬、口ごもる。
「――……教室にいるのが、苦痛なタイプ」
「……え、あ……悪ぃ」
「謝らないでよ、今さらだし。……ずっと、そうだったんだから。……だから、図書委員になって、図書室に通い詰めていたの」
「――そうか。でも、図書委員ってのもイメージ通りかもな」
 微笑んであたしを見やる早川を、見上げる事ができない。

 ――高校の時の思い出なんて――一番、思い出したくなかった。

「……茉奈?」
「え、あ、ううん。……何でもないわ」
 ごまかすように笑い、受け取った芦屋先生の文庫を抱きしめるように持つ。
 ――……どんなに辛くても……本があったから――。
 それが、たとえ、逃げだとしても――その瞬間だけは、現実を見ないで済んだ。
 すると、早川はその場にヒザをつき、うつむいたあたしを真っ直ぐ見上げる。
「早川?」
「――……何があったんだ」
「え?」
「……お前が以前(まえ)、恋愛したくねぇ、って言ってたのは――星野商店の山本さんと、因縁めいたような話をしてたのは――高校の時、何かあったからなんだろ?」
 あたしは、息をのむ。

 ――違う。コイツは何も知らない。
 知らないで、かまをかけているんだ。

 わかっているのに、身体は金縛りにあったように動けない。

「茉奈」

「――っ……ちっ……がうっ……!」

 かろうじて、ゆるゆると首を振る。
 だが、早川は許してくれなかった。

「お前、昨夜のコト覚えてないだろうから、もう一度言うぞ」

「え?」

 昨夜の記憶をたどろうにも、うろ覚えの上、どこからが夢だったのかわからない。
 早川は、そのまま揺るがずに続けた。

「――お前の辛さは、俺が全部引き受ける」

「――……は、早川……?」

 そして、そっとあたしの手に触れた。
 それは、壊れ物に触れるように。

「――……全部……全部、俺が受け止めるから――……」

 声が出ない。
 ――見つめる早川は、微動だにしない。

「――辛いなら、全部、吐き出せ。お前が、抱えてるモン、全部――」

「――……は……や、かわ……」

 真っ白になった頭で、必死に考える。

 ――早川に話す?
 先輩の事を?奈津美の事を?
 何を、どこまで――全部?

 完全に、パニックだ。

「茉奈」

 すると、腰を上げた早川は立ちヒザになり、あたしの目尻をそっと指で拭う。
「――泣くな。……今じゃなくてもいい。話しても良いと思える時で。……ただ、絶対に話した事を後悔させないから」
 あたしは、声も出せずに、ただうなづく。
 早川の想いが、うれしくて――痛い。

 ただ、それだけの感情で、涙はずっと止まらなかった。
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