Runaway Love
 その週は、完全に新人を見守りながら、マニュアル作成に費やされた。
 古川主任は、やはり、スパルタで、次から次へと仕事を二人に振っていく。
 それをフォローしながら、あたしは自分の仕事もこなし、余裕が見えたらマニュアルを作る。
 その繰り返しだ。
 ようやく出来上がったのは、木曜日の事。
 仕事を家に持って帰る事を禁じられているので、残業しながら、どうにか形になった。
「――じゃあ、一旦プリントアウトしたものをいただきます」
「ハイ」
 あたしはうなづき、気がつけば、相当な量になってしまったマニュアルを、延々とプリンタが吐き出していく。
 できたものから揃え、手近にあった、未使用のファイルに閉じていった。
 そして、ようやく終了すると、中々の重さになり、苦笑いだ。
「……さすがに、細かいですね」
 古川主任が、そう言って、パラパラと作り上げたマニュアルを見る。
 この人に褒められるのは、何だか、やり返した気分になる。
「――工場が稼働するのは先の事でしょうけれど、今から準備しておいた方が、バタバタせずに済むと思うので」
「そうですね。――じゃあ、来週までに目を通しておきます」
「お願いします」
 実際、こちらの事務を引き受けるのはこの人なのだから、わかってもらえないのは困るのだ。
「では、もう帰りますか」
 古川主任は立ち上がり、そう言って、自分のバッグを持った。
 あたしも、自分の席に置いてあるバッグを持ち、経理部の部屋を出る。
 外を見やれば、いつの間にか日は落ちて、あっという間に真っ暗になっていた。
 フロアの中は、みんな既に帰ったようで、しん、と、静まり返っている。
 壁にかかった時計を見やれば、既に八時だ。
 部屋を出てドアを閉めると、古川主任は、社員カードでドアをロックした。
 ここは、権限のある人間がドアロックできる仕組みのようで、あたしはできない。
「――すみません。予定以上に時間がかかってしまいました」
 廊下に出ると、彼は、軽く頭を下げた。
「え」
「時間も遅いので、社用マンションまで送ります」
 あたしは、ギョッとして首を振った。
「い、いいです、いいです!大した距離でもないですから!」
 最初に感じたイラつきや緊張感は、まだ、完全に無くなった訳ではない。
 そんな相手と一緒に帰るなど、気まずすぎだ。
 だが、古川主任は、頑として譲らなかった。
「何かあったら、責任問題でしょう」
「でも」
 言い合いながら、階段を下り、ビルのドアを開け――あたしは、完全に停止した。


「――ああ、やっと来た。杉崎さん、こっちに来てたんだね」


「――……せ、ん……ぱい……?」


 目の前の街灯の下で、スマホをいじりながら、あたしを見やってそう言ったのは――山本先輩だった。


「な……何、で……」

 ようやく喉から出た言葉に、先輩はあからさまにバカにしたように笑った。
「何でって、キミの会社、ウチの方とも問屋契約してるでしょ。僕、こっちにも取引先あるから、昼間、顔出しにきたついでに挨拶に来たら、キミがいるんだもん、ビックリしてさぁ!」
 あたしは、呼吸困難かと思うほどに、息ができない。
 足が震える。
 ――まさか、こんな遠い地で、会うとは思う訳ない。
「どう、せっかくだし、食事行かない?いろいろ話聞きたいし――」
 言いながら、先輩はあたしに大股で近づき、ぐい、と、肩を抱く。
 そして、耳元で囁いた。

「それより、ラブホ直行の方がいいかな」

「――……っ……!!」

 あたしは、力任せにその腕を振りほどいた。

「お断りしたはずですっ……!」

「ふぅん。――じゃあ、もう、奈津美ちゃんでもいいか」

「――……は……?」

 瞬間、全身が総毛立った。
 ――どういう意味だ。
 先輩は、あたしを見やると、クスクスと笑う。

「”すぎや”さんに、可愛い妊婦の店員さんがいるって、結構話題なんだよね」

 あたしは、そのまま真っ青になり、言葉を失う。

 まさか――実家に――店に行ったのか、この男。

「会社の人間と、何人かで呑みに行ったんだけど、良い店だね。気楽だし、おかみさんは明るくて気さくだし」

 そんな上滑りするような言葉などいらない。
 要は、もう、いつでも逃げ道はふさげるという事だ。

 ――あたしが……奈津美を……母さんを、守らないと――。

「――……せ……「行きますよ、杉崎主任」

 あたしが言葉を発する前に、思い切り腕が引かれた。

 ――……え?

 顔を上げれば、視界に入ったのは、古川主任だ。
 意外と強い力で、あたしはそのまま先輩の前から、連れ去られた。
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