Runaway Love

81

 その週は、先輩の事が頭から抜け落ちるくらいに、忙しかった。
 毎日、新しい仕事と今までの仕事の同時進行。
 気がつけば、終業時刻の繰り返し。
 ――辞表を書くヒマも無い。

「杉崎、来週の予定だが――」

 帰り際に大野さんに引き留められ、来週の予定を確認し、不備が無いかチェックする。
 野口くんと外山さんは、先に帰らせた。
 あんまり毎日残業だと、いろんなところに支障が出る。
 今週はバタバタしすぎて、実家の事もおざなりになってしまった。
 一応、岡くんからは毎日メッセージが来ていて、先輩はいつも閉店まで居座っているとの事だ。

 ――もしかしたら、茉奈さんが来るのを待っているのかもしれません。

 ……待っていて、どうするというのだ。
 まさか、母親の前で既成事実でも作るつもりか。
 母さんは、まだ、あたしが先輩と、どういう事になっているか知らないはず。
 調子に乗って、結婚話でも出たら、完全に後押ししそうだ。

「杉崎?」

「え、あっ、すみません」

 すると、大野さんに肩をたたかれ、我に返った。
 マズい。まだ、仕事中だ。
 大野さんは、慌てるあたしを、苦笑いで見やった。
「いや、疲れてんな。――まあ、全員そうだろうが、お前さんは特に、帰って来たばかりなのにな」
「いえ。関係ありません」
 そう言って首を振ると、大野さんは笑って返す。
「関係あるだろ。疲れてると、良い仕事はできねぇぞ」
「――……すみません」

「まあ、謝るくらいなら、ちゃんと帰って休め。――何があったか知らねぇけど、一回、頭真っ白にしてみるくらいにしねぇと、自分がどうしたいのかもわからねぇからな」

「――え」

 大野さんは、それだけ言って、あたしを部屋から追い出す。
「ホレ、後はやっとくから、帰った帰った」
「お、大野さん」
「――部長、だろ、杉崎代理?」
 そう返すと、大野さんは、持っていた書類を片付け始めた。

 何だか、すべてお見通しのようで、あたしは黙って頭を下げて、部屋を後にした。


 翌日、土曜日。
 あたしは、バスに乗り、実家まで向かった。
 たぶん、先輩が来るのは夜だ。
 閉店まで粘るようなら、会うチャンスはあるだろう。
 バス停から歩き、いつものように、裏から実家の敷地に入る。
 店はまだ、昼の開店準備に追われているようで、母さんがアレコレしている様子が、店の裏の小さな窓から見えた。
「――ただいま」
 鍵を開けて中に入ると、誰もいないのか、静かなものだ。
「……奈津美、いるの?」
 店には、母さんだけしか見えなかった。
 キッチンをのぞいても、人の気配は無い。
 次にリビングに顔を出すと、ラグが敷かれ、奈津美が横になって眠っていた。
 お腹が大きいからか、仰向けには、なれないようだ。
 あたしは、奈津美のそばにヒザをつき、その整った寝顔を見やる。
 ――小さい頃から、寝顔は変わっていない。
 母さんが仕事でいなかった間、あたしが、昼寝の時は寝かしつけていたのだ。
 毎日、毎日――親代わりに。

「……アンタには、手出しさせないからね……」

 そう、決意を込めてつぶやく。
 すると、奈津美は、その目をゆっくりと開いた。

「……あれぇ、お姉ちゃん……?」

 少々寝ぼけているのか、舌足らずにあたしを呼ぶ。
 それすらも、作られているように感じて、視線を下げた。
「――ただいま」
「お帰り、どうしたの?あ、大阪土産、ありがと。美味しかったよ」
「もう食べたの?」
「うん。お母さんが、我慢できると思う?」
「……思わないわね」
 奈津美は、でしょ、と、笑いながら起き上がる。
 その動きは緩慢で、また具合が悪いのかと心配になった。
「あ、気にしないで。お腹大きくなっちゃったから、ゆっくりにしか動けないのよ」
 そう言うと、奈津美は近くのソファのひじ掛けに手を置き、立ち上がる。
「よいしょっと。――ああ、もう、動きづらいなぁ」
「仕方ないでしょうが」
「まあ、そうなんだけどさ――あ!」
 言いながら、何かを思い出したのか、奈津美はあたしを見た。

「お姉ちゃん、覚えてる⁉お姉ちゃんの、高校の時の先輩、今、店に入り浸ってるの!」

 その言葉に、あたしは心臓が跳ね上がった。
< 357 / 382 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop