Runaway Love
 ようやく立ち上がり、ひとまず水分を口にしようと、冷蔵庫からお茶を取り出して飲む。
 意外と蒸発していたのか、一気にコップ二杯を空けてしまった。
 精神的にダメージがあっても、身体は生命活動を続けようとしてる。

「……もう、切り替えなきゃ……」

 岡くんの事は――……良い思い出にしなきゃならない。
 就職して、東京に行く彼には、ここで生きていくあたしはふさわしくない。
 そう思うと、胸が引き裂かれそうに痛い。
 それは、棘が刺さっていた時の痛みとは、まるで違う――経験した事のないもの。


 彼が、こんなにも、大きな存在になっていたなんて、思わなかった。


 ――……この気持ちは、きっと、もう……誰に対しても、持つ事は無い気がする。



 月末月初の修羅場を越え、ようやく落ち着いたあたりで、南工場のみんなと、久し振りに食事をする事になった。
 場所は、いつものように、工場の食堂だ。
 本当は、藤沢さん達、若い面々だけの予定が、あたしが来るという事で、何故か工場のおばさま方も参加したがった結果、送別会の時のような状況になってしまった。

「あー!杉崎さん、お久し振りですー!」

 工場の正門から中をのぞき込めば、既に、藤沢さんが待機していて、駆け寄って来た。
「お、お久し振り。メッセージ、ありがとう。マメに返せなくて、ごめんなさい」
「いいえ!さ、早く入って入って!」
 あたしは、背中を押され、慌てて歩き出す。
 この()のこういうところは、相変わらずで心が凪ぐ。
 工場内に入れば、数か月振りに顔を合わせた工場長や、従業員のみなさんが、明るく声をかけてくれた。

 そして、食堂に入り――あたしは、固まる。

「ああ、久し振りー!杉崎さ……」
 永山さんの大きな声が、途中で止まるのがわかるが、あたしはうつむいたまま、顔を上げられない。

 ――”けやき”のオムライス。

 それが、待っていたみんなの前に置かれていて――その香りは、あたしの涙腺を一瞬で崩壊させた。

「え、え、杉崎さん、どうしちゃったんです⁉」
「ご、ごめんなさい。大丈夫だから……」
 あたしは、藤沢さんに肩を抱かれながら、席に着いた。
「……泣く程懐かしくなったかねぇ、杉崎部長代理!」
「え」
 茶化すように、永山さんが言う。
 ハンカチで涙を拭きながら、あたしは顔を上げた。
「――昇進祝いも込みだよ。……今日は、何も考えないで、楽しんで行きなよね」
「……ハイ」
 何だか、何かを察したようで、みんな、あたしの涙の理由は追及しないでくれた。
 今はそれに、ありがたく甘える事にした。


「それじゃあ、お疲れ様ー!」

 途切れる事の無い会話に名残惜しさを感じるが、あたしのバスの時間を考え、食事会は二時間せずにお開きになった。
 誰も、野口くんの事を口にしなかったのは、おそらく、ウワサがこちらまで届いているからだろう。
 遠目にバスが見え、あたしは、息を吐く。
 そろそろ、この時間は冷えてくる頃だ。
 少しだけ肩を震わせ、到着したバスに乗り込む。
 乗客は、以前のように、数名ほど。
 あたしは、いつも乗っていた席に腰を下ろし、窓の外を見やった。

 どんなに辛い事があっても――時間が癒してくれるのだろうか。

 今まで、過去に縛られ続けたあたしには、想像もしなかったが……こうやって、何気ない日常を過ごしていく事で、人は、自分を保てるのかもしれないと思った。
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