Runaway Love
 一階に到着し、エレベーターのドアが開く。
 すると、ロビーにいた社員の視線が、申し訳なさそうにこちらにチラチラと向けられた。

 ――ああ、もう、何なのよ。

 あたしは、こんな風に注目されるような人間じゃないし、そんなものには、なりたくないのに。

「――じゃあね、早川。お疲れ様」

「え、す、杉崎?」

 あたしは、隣を歩く早川に、それだけ言い残すと、駆け足に近い早足でロッカールームに飛び込む。
 すると、ちょうど、ピークに当たってしまったのか、女性社員の視線が一斉にあたしに向かってきた。
「――お疲れ様です」
 そういいながら、ロッカーからバッグを取り出そうとして、固まった。

 ――”さっさと辞めろ、淫乱女”。

 A4の紙に、大きくプリントされた文字。
 それが、自分のロッカーの扉に、セロテープで貼られている。
 停止したあたしは、後ろからの視線が怖くて、振り返られない。

 ――……これは、何。

 あからさまな悪意を感じ、足が震えそうになるのを、必死に耐える。

 ――……ふざけないでよ。あたしは、何もしていない。

 あたしは、貼られた紙を力の限りにはがすと、両手で丸める。
 そして、バッグの中に放り込むと、貴重品バッグを一緒に入れ、ロッカーのドアを閉めた。
 強がりだろうが、泣いたってどうにもならない。
 にじんできそうな涙をこらえ、顔を伏せながら、ロッカールームを出た。
 ――いっその事、裏から帰ろうかしら。
 ロッカールームの前の通路をそのまま行くと、直通で駐車場に出られる出入り口があるのだ。
 社員は、みんな”裏”と呼んでいる。
 けれど、ここで逃げるのは、二股を認めているようで癪に障る。
 ――仕方ない。
 あたしは、あきらめて正面玄関を突破しようと、ロビーへ向かった。
 すると、早川は案の定、受付や他の部署の女性達に囲まれている。

「あ、お疲れ様ですぅ、杉崎主任ー」

 気配を消して、できる限りのスピードで通り過ぎようとしたのに、あっさりと、篠塚さんに声をかけられてしまった。
 あたしは、そのまま無言で頭を下げて、足を速める。

「何で、平気な顔して仕事してるんですぅ?」

「――は?」

 さっさと正面玄関を出たかったのに――。

 完全に、ケンカを売られた。

 足を止めると、あたしの前にやって来た篠塚さんは、冷めた目で見下ろしてきた。 
 その視線を、真っ直ぐに受け止める。
 逸らしたら、負け。
 そう思った。

「――どういう意味ですか」

 あたしは、いったん深呼吸して、彼女に尋ねる。
 頭に血が上ってはいるが、冷静になろうと努める。
「えぇー、だって、二股かけてるんですよねぇ?もう、会社中――ていうか、取引先の営業さんまで知ってますよ?」
「――かけてないわよ」
「じゃあ、何で、部屋から二人が出てきたんですかぁ?」

 ――……見られたのは、この女にか。

 あたしは、ため息をついて、反論した。

「違うわよ。――ただのお見舞い。具合悪かったから」
「お見舞いに来てもらうくらいには、親しいんですねぇ?」
 思わず、違う、と、叫びたかった。
 けれど、そんな事をしても、彼女の意見は変わらないだろう。

 ――こうやって、追い詰めて――あたしを辞めさせた上で、早川を落としにかかるのか。

 これ以上は、水掛け論だ。

 あたしは、踵を返す。
「あれぇ?言い返さないんですかぁ?」
 篠塚さんは、にこやかに、あたしの前に立ちふさがると、そう言ってのぞき込んできた。
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