Runaway Love

19

 翌朝、月曜日。
 いつもの時間に家を出る。
 思わず早川の姿を確認してしまうけれど、今日は見えなかった。
 大きく息を吐くと、あたしは昨日下ろしたばかりの靴で歩き出す。
 カバンの中には、野口くんから借りた本が入っている。
 昼休みにでも返して――できれば、感想とか話したい。
 あたしは、そんな事を考えながら、十分程の道のりを歩く。
 日差しはどんどん強くなっていき、このくらいの時間でも、肌は若干ヒリついてきた。
 一応、日焼け止めは塗っているが、汗でメイクと一緒に少し落ちかけているので、もう一度、塗り直さないといけないようだ。
 夏は嫌いじゃないけれど、最近は猛暑が多すぎて、少々げんなりしてしまう。
 年々、気を遣うところも増えてきて、無意識にため息も出てしまうのだ。


「おはようございます、杉崎主任」

「あ、お、おはよう。――野口くん」

 正面玄関を入り、ロッカールームへ向かおうとすると、裏から野口くんが入って来て、あたしは目を丸くする。
「あれ?……いつもより遅くない?」
 出勤時間は元に戻したので、渋滞を避けるために早く来ている野口くんが待っていない限り、顔は合わせないはずなのに。
 あたしが、不思議そうに見上げると、野口くんは、バツが悪そうな顔を見せる。
「……あれから、久しぶりに杉崎主任に貸した本のシリーズ手を付けたら……止まらなくなってしまって……」
「え。ウソ、アレ、二十冊くらいあったんじゃ……」
 あたしが借りているのを入れると、確か――。
「全部で二十二冊です。まあ、十五冊しか読めなかったんですが……寝たのは、明け方で……要は、寝坊です」
 少し苦笑い気味に、大した事ではないかのように、野口くんは言った。
「野口くん……今日、仕事になる……?」
「一応、いつも以上にカフェイン摂ってきたんで……」
「それ、大丈夫なの……?」
「まあ、大丈夫でしょう。限度は、わかります」
「なら良いんだけど」
 あたしは、苦笑いで返すと、彼と別れてロッカールームへ入る。
 すると、既に入っていた数人の女性が、あたしをチラチラと見やる。
 あたしは、軽く会釈してバッグをロッカーに入れると、いつもの貴重品バッグと、お弁当だけ持って、部屋を出た。
 先週までの貼り紙は、今は、無かった。
 ――あきらめたのか。様子を見ているだけなのか。
 でも、月末までに貼られなかったら、辞めるのを考えても良いのかもしれない。
 ――そのために、野口くんが、頑張ってくれているんだから。


「あ、杉崎主任、俺も行きます」

 背筋を伸ばし、ロビーを通り過ぎようとすると、そう声をかけられ、あたしはそちらを見やる。
 もう、部屋に行ったと思っていた野口くんは、数人の女性社員に囲まれていた。
「えぇー、もう少し、お話しましょうよー」
 篠塚さんが、媚びるような口調で、野口くんを引き留めようとしていたが、それを振り切り、あたしのところに逃げてくる。
「……ああ、そっか。会社に入ってから、前髪切ったの、初めてかしら」
「――……高校から、こんなです。……十年振りくらいですよ」
 ちょうど到着したエレベーターに二人で乗り込む。
 他の社員は、遠巻きにあたしたちを見送っていた。
 ドアが閉まると、あたしは思わず吹き出してしまう。
「……茉奈さん、笑わないでくださいよ」
「ご、ごめんなさい……。でも、災難ね。切らない方が良かったのかしら」
「……協力してくれるって言ったのは、茉奈さんでしょう」
 野口くんは、少しだけ拗ねたように、あたしを見下ろして言った。
「それもそうね。まあ、自分でも対処できるように、頑張りましょ」
「――……ちゃんと、そばにいてくださいよ。オレ、挙動不審になると思うんで――茉奈さんがいないと自信無いです」
 思わず、ドキリとしてしまうセリフだが――このコは、本当に無意識なんだ。
 エレベーターが到着し、平然とあたしを先に降ろす彼の表情は、まったくと言って変化は無い。
「……野口くん、自覚して!」
「え、マジですか?オレ、何言いました?」
 キョトンと返してくる彼の背中を、あたしは、軽く――少しだけ力を入れたかもしれないが――叩いたのだった。
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