プラトニックな事実婚から始めませんか?
「そうだな」
「私と一緒にいるって知ったら、嫉妬されちゃうかも」

 啓介は、ははっ、と笑うと、「行こうか」と歩き出す。

 きっと、綾の行きたい店で飲むのだろう。追いかけようか。そう思うけど、なかなか足が動かない。さっきまでは問い詰める気でいた。それなのに、奮起していたその気持ちが一瞬にして消えてしまったかのように力が入らない。

 ハンカチを返すだけなら飲みにまで行く必要はない。ハンカチはただの口実で、啓介は綾に会いたかったのだ。それも、私には内緒で。私の離婚理由を知ってる啓介なら、不安にさせないように誰と出かけるかは教えてくれるはず。それをしないのは、綾と会うことが私を不安にさせる行為だと自覚しているからだ。

 ふたりの姿が見えなくなると、私は反対の道を進んだ。マンションにはすぐに帰りたくない。ううん。もうずっと帰りたくないかもしれない。

 啓介の顔を見たら泣いてしまいそうだし、責めてしまうかもしれない。体の関係を持たなくても愛は育めるなんて、勝手な思いで私はずっと彼を拒んできた。浮気されたって仕方のない態度を取ってきた。それでも、彼が私を好きでいてくれると思っていたのは、甘えだった。

 気づくと、駅前通りの外れに来ていた。小さなバーを見つけると、引き寄せられるように扉を開く。

 店内のカウンター席には、一人で来店したのだろう男性客の姿がぽつぽつと見えるだけ。まるで、お好きな席にどうぞ、と言わないばかりの爽やかな笑顔を見せるマスターに促されるように、入り口近くの席に座り、ビールとつまみを注文する。

 これからどうしたらいいだろう。途方にくれながらも、芹奈のことを思い出す。心配しながら連絡を待ってくれているだろう。電話しなきゃと思うけど、力が入らなかった。
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