憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜

36、アシェルと

 アシェルは甘い果汁や果物の小さく切ったものだけは口にしてくれる。滋養にはとても足りないが、それでも何か受け付けてくれることがエマには嬉しい。

 彼女が帰宅し、三日過ぎた。目に見えて衰弱が激しい。こけた頬を見ているだけで、彼女は嗚咽を堪えるのがやっとだ。

(いつもは羨ましいような血色のいい頬をしているのに)

 ダイアナから急ぎで手紙が届いていた。その後の状況を知らせて欲しいと綴られてあった。すぐに筆を取るべきだが、書けないでいた。

 真実を書いて送ったところで、館の自分たちの不安をそのまま姉に伝染させるだけに思えた。

(遠く離れた場所で、身悶えするほど辛い思いをするわ)

 ウェリントン領地のバート氏が、エヴィを連れて見舞いに訪れてくれた。感染性の病も疑われるから、二人に会わせることはせず、居間で母とエマが対応して終わった。

「バートさんはお優しいわ。お母様を励ましにまめに寄って下さって」

「そうね。励みになるわ」

 アシェルを診た医師から広がりでもしたのか、アシェルの病の紅斑が噂になってるとメイドが言った。村に用足しに行った際に、他所の使用人から怖い伝染病ではと勘ぐられたと憤っていた。

 ただでさえ気が滅入る中、そんな世評が館の外を一人歩きしている。エマもため息がふともれるのを止めようがない。

 バート氏もその噂を知らないはずはないのに、足を向けてくれている。これは今の心境の母にはとてもありがたかった。


 それはアシェルの着替えを終えた後だった。汗をかいてそのままでは身体が冷える。午後早くと夜に着替えさせるのが、寝込んでからの日課になっていた。

 メイドを手伝い、部屋を出た時だ。階下の玄関の方が騒がしい。アシェルが病の今、館には珍しい物音だ。足音と誰かの声が混じる。女性のものではない。

(バートさんではなさそう)

 エマは欄干から下をのぞいた。母は疲れで仮眠をとっていた。来客であれば、起こさず自分が応じようと思った。

 階段を下り切った。玄関に向かうと客はいた。メイドがエマをうかがう。この場にいるのがあり得ない人物だったからだ。

(レオ)

 彼はエマを見て、軽い辞儀をした。彼女も機械的に応じる。

「アシェルは?」

 開口一番に彼はそう言った。機嫌や在不在を問うような軽い口調ではなく、低く厳しい声だった。

 突然の来訪に彼女は狼狽えていた。しかし、すぐレオはアシェルを見舞ってくれたのだと理解した。

「休んでいます」

「会わせてくれないか」

「…それは、控えた方がよろしいわ」

「僕なら気にしないでいい。急ぐんだ」

 彼は予定で、すぐにまたどこかへ立つのかと思った。その前に、縁のあったアシェルを見舞いたいのだろうと。

 関わりのあった少年を忘れない彼の優しさに他ならない。エマは受け入れる気持ちになった。

(アシェルの病気は大人には平気なのかも。館の人間は誰も罹患しないもの)

 エマは彼を伴って、二階へ上がった。

 アシェルの部屋に入るなり、彼は真っ直ぐに窓に向かった。引かれた厚いカーテンを音を立てて閉じていく。

「何を?」

 振る舞いに驚いた。彼はそれに答えるより先に窓のカーテンを全て閉じた。飾り小窓には、壁の絵画を外し立てかけて封じた。

 室内は暗く沈んだ。

「レオ、あなた何をしているの?」

「アシェルの病には日光がいけないんだ」

「え」

「治療法は、紅斑の症状がなくなるまで日光を遮ることしかない」

「そんなこと、お医者様はおっしゃらなかったわ」

「体質が起因する稀な奇病で、滅多な医者は知らない。僕も子供の頃同じ病に罹った。一度罹れば免疫がつくようだよ」

 エマは黙って唇を噛んだ。今の事態に頭と心が追いついていかない。

「僕を信じられなくても、これだけは信じてほしい」

 声に、眠っていたアシェルが目を覚ました。消耗していて、いつもうつらうつらの状態だ。暗闇に細く泣き出した。病気になり幼さがぶり返し、よく泣くことがあった。

 エマより先にレオがその枕頭に行き、膝を折った。

「アシェル、僕だ、レオだ。覚えているだろう?」

「……レオ。本当…?」

「君は治るよ。僕も同じ病気になって元気になった。だから絶対に大丈夫」

「…うん」

「いい子だ」

 暗がりがようやく慣れた彼女の目に、その光景は眩しく浮かんだ。不意に涙が込み上げる。二人に背を向け、彼女は涙を流した。

 小さな嗚咽が抑え切れない。手で顔を覆った。どれほどかして、ふと前を白いものが差し出された。レオが彼女へ差し出したハンカチだった。

「本当なの? ねえ…」

「え」

「アシェルは良くなるの? 本当に?」

「ああ。こんなことで出鱈目は言わない。日の光さえ遮れば、熱も引くし自然に良くなるよ。三日もすれば、肌の赤味も完全になくなる」

 力強い断言だった。

 心の重しがふっと取り除かれるような気分だった。部屋は暗いが、目の前が明るくなるようで、張っていた力が抜ける。

 膝からくず折れそうになり、レオに支えられた。長椅子に座るように促される。彼は立ったままだ。

 今も彼が側にいることが信じられない。幻ではないかとさえ思う。辛い現実から逃げ出すための心の逃避が見せるうたかたの夢だとも。

 彼女は間違いなく手にある彼のハンカチを握る。

「ありがとう…。わざわざ、来て下さって……。キースからお聞きになったの?」

「ああ。症状に覚えがあるから、彼が寄越した医者にも会った。発熱による紅斑だと言っていたよ。絶対にそうじゃない」

 彼の処置には腑に落ちることがある。アシェルの熱は夜になると下がることが多かった。あれは日の光が遮られたからだろうか、と。

(そんなこと、絶対にわからなかったわ)

「僕の時は、ジェラルドが…、叔父が治せる医者を探し回ってくれた。結局、治療法を知っていたのは医者ではなく、遠い村の魔女扱いされている老婆だった」

 彼が口にした名には聞き覚えがあった。ワーグスビューで会った時、やはりその名を口にしていたからだ。

(叔父様だったのね)

 マシューの連れは、彼の叔父だったことになる。

 暗く静かな部屋に、微かなアシェルの寝息が聞こえる。苦し気でもなく、ずっと健やかなもの感じられた。

(アシェルは治るのだわ)

 遅れて今、安堵が確信に変わった。

「幼い子は体力がないから、症状が長引いたら危ない。手遅れにならなくて、本当に良かった。医者の見立てが利かない病で、辛かっただろう」

 彼女は首を振る。一番辛いのはアシェルだろう。そして、様子もろくに伝わらない遠方のダイアナの方が、看病の出来る自分や母より辛さは増すはずだ。

(手紙で早く伝えてあげなくちゃ)

 そう思うが、椅子から立てないでいた。休んでいる母にも、起こしてでも聞かせたい内容である。なのに、暗いこの部屋から出て行けないでいる。

(レオがいるから)
< 36 / 45 >

この作品をシェア

pagetop