ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!

覚悟はあるか

 背後から、ンンンン!と咳払いの声がする。無視してキスを続ける隆介の胸元を弱いながらに一生懸命に押しても、隆介は無視していいと言わんばかりに雫の後ろ頭を掴んで、さらに濃いキスをしようとした。

「おい。連れてきてやったからって調子乗んなリュウ」

 長く巻いたチラシのようなもので隆介の頭を叩いた多田は、移動なんだから急げよとハンガーにかかっていた服を投げつけた。どうやらこのまま打ち上げ会場へ行くらしく、移動の時間が迫っているようだ。関係者同士の会に参加する気のない雫はじゃあこれで……と部屋を離れようとしたけれど、隆介は離れる気はないようだった。

「あー……雫ちゃんさえ良ければ、一緒に来てくんない?」
「あ、えーと……私一般人ですけど、いいんですか?」
「いや正直、今こいつと漫才やってる時間もないくらい時間ないんだよね」

 雫のことちゃん付けで呼ぶなよと絡んでくる隆介を放置して、多田は楽屋を片付け始める。どうやら本当に時間がないようで、隆介の私物は整理せずにバッグの中へ放り投げられていった。

「お前は先陣切ってシャワー浴びたくせに、なんで服すら着てねんだよ!今日追加料金かかったら全額おまえに請求書出してやる!一括で!」
「っざけんな。個人で払えねーよ」
「おうおう、借金地獄で音楽作り続けやがれ!嫌なら早く移動!」

 体育会系の部室のような、オカン的なノリとテンポで文句を言いながら、多田は猛スピードで部屋を片付けていく。卓上へ出しっぱなしになっていた吸入機や楽譜などがどんどん箱へ収納されていった。隆介はなんだかんだで悪いと思っているのか、軽く髪を乾かしてすぐ着替えだす。

 片付けを手伝おうにも、雫は外部の人間すぎて何が何だかわからず、手を出せない。多田から「これ持っててくれる?」と言われた大きめのタンブラーと、隆介の部屋でよく見たキャップだけは落とさないように、ぎゅっと握りしめた。

 多田と話している時の隆介は雫といる時よりも少し口が悪い。昔から言い合っているからこそなのか、相手にかける言葉の限度を知っているという雰囲気が堪らない。ふたりに背を向けるように、こっそり入り口側を向く。笑いを堪えられなくて目を閉じ、必死に深呼吸していると、恋人からは悪い子だねと声をかけられた。

 ダークグレーのプルオーバーを着た隆介は、雫の手元に預けられていたキャップを被り、ブルーの丸渕サングラスをかけた。クローゼットにあったサングラスは、殆どが度ありだと言っていた中で、この丸いサングラスは度なしだったはず。今日の隆介はコンタクトで視界がはっきりしていると思うと、雫は自分の身だしなみが大丈夫かどうか、急に心配になった。

「雫ちゃん!待たせてごめんね!」
「それは俺が言う言葉で……」
「うるせえ!あと3分!」

 荷物を仕舞った箱を重そうに搬出しながら、多田は急げ急げとふたりを急かした。少し前まで廊下を忙しなく走り回っていたスタッフ達の姿はもう見えない。自分たちが最後のようで、手を繋いで移動車へ走った。大人になってから、走ったことなんてあっただろうか。学生時代に廊下を走って怒られた記憶と重なって、思わず笑ってしまう。繋いだ手の方を見ると、彼もこの光景を楽しんでいるのか、同じようにこちらを見ながら微笑んでいた。

「うぉ……!ちょちょちょ、ストップ!」

 出入り口の目の前で、多田がこちらを振り返って静止させた。焦っているように眉を顰めて、一度上体だけを逸らして外を確認し、雫の方へ視線を戻す。さっきまで冗談を言い合っていた人とは違う、マネージャーらしい目つき。

「雫ちゃん。ちょっと重いから大変だと思うんだけど、この箱持って俺の後ろ歩いて。隆介は……先行け」
 
 顎をクイっと動かした多田の動きで何かを察したのか、黙ったままの隆介は一度キャップを目ぶかに被り直した。マスク越しの頬へのキスはさらりとしていて、表情を読み取ることはできなかった。

 そのまま歩き出した彼は出入り口のガードマンに一言お礼を言って、黒塗りのバンへ向かって早足で歩いて行く。1、2秒してから、耳を突き破るような黄色い声援が通用口に響いた。

「……ごめん雫ちゃん。これもまぁ予想してた展開ではある、って話でさ。茨の道かもしんないけど、雫ちゃんは俺らの恩人でもあるから……この先は、覚悟して欲しいんだよね」
「覚悟、ですか」
「そう。あいつをあいつのままで居させる覚悟は、ただ愛されるだけじゃない。当然、犠牲もある。時には切り捨てたり、黙って守られたりする覚悟――雫ちゃんにはある?」

 茶化していた時よりも冷静で重い声。鋭い目線で試すようにこちらを見ている。マネージャーとして動いている以上、彼がリスクを考えるのは当然のことだ。黄色い声援が湧く理由も、自分にはよくわかる。あんなにも魅力的で素敵な男性を世間が放っておくはずがない。おそらく明日の朝のトップニュースになるだろうと、カナも話していた。

「ごめんなさい。えっと、正直まだ混乱していて。もう少しだけ時間をもらえませんか。近いうちに必ず、答えは出すので」
「……まぁ、そう言われたってそうだよなぁ〜。ん〜……おっけ、わかった。ひとまず今日はスタッフ役としてそのまま着いてきて。この話はまた今度ゆっくり話そう」
「ありがとう、ございます」

 じゃあこれよろしく!と渡された黒いボックスはずしんと重く、銀色のハンドルが雫の小さな手に食い込む。「トランクへ乗せたら助手席に座って」と指示した多田は、警備員室へ声を掛けに行った。箱は1歩進むごとにガチャガチャと音を立てる。お前にこの重さが支え切れるのか、中身を壊してしまう事はないかと問い詰められているようだ。

 開けっぱなしになっているトランクには、既に同じ形の箱が2段に詰まれていて、少し持ち上げて載せなくてはならないそこへ、雫は目一杯の力を使って持ち上げ、自力で収納した。その場でジャンプして跳ね上げ式のバックドアを掴み、勢いをつけて閉じる。ほぼ同時にバンのエンジンがかかったのに気づいて、雫はいそいそと助手席へ乗り込んだ。

「あの……っ白波瀬です!お邪魔します!よろしくお願いします!」

 後ろの席に座る3人へ向かって挨拶をして頭を下げると、クスクスと笑う声がする。様子が気になってゆっくりと頭を上げると、よろしく〜と各々から声をかけられた。メンバーの邪魔をする形になって申し訳ないと思ったけれど、彼らは案外気にしていないのかもしれない。

「雫ちゃん、シートベルトしてね。出発するから」
「あっ、すみません。運転よろしくお願いします」

 いそいそとシートベルトを締めて、ちょこんと座ると車は発進した。車道手前の歩道には、ライブハウスの中にあったのと似た形状の簡易的な柵が建てられている。数十人の女性ファンたちは助手席に座る雫を一瞬睨んだ後、車内にいるメンバーに向かってきゃっきゃと声を上げながら手を振る。

「お〜怖っ!雫ちゃん、私生活気をつけてね。近くにいるファンの子なんて要注意だからね」

 ま、雫ちゃんはバンドとか聞くタイプじゃないし大丈夫か!とガハガハ笑う多田の言葉を聞き流せない。ハハハと軽く笑って誤魔化したものの、雫の頭の中は今後の悩みでいっぱいになってしまっていた。

 会場までの間、メンバーは思い思いに感想を言い合って楽しそうだ。興奮冷めやらぬといった様子であの曲のあそこ、盛り上がったよななどと振り返っているのを背中で聞くだけで、演者もまた楽しんでいたのだと嬉しくなった。

「なんだかんだ言ったけどさ、俺自身は雫ちゃんに感謝してるし、ずっとそばにいてやって欲しいと思ってんのよ。あいつが音楽やってて楽しそうなの久しぶりだし、人類皆幸福であるべきって思ってるし」

 渋滞し始めた高速で、ハンドルの上で腕を組むような体制をとり、多田はボソボソと喋り始めた。

「ただ、バンドと事務所を大きくするなら、今ここからの流れを止めるのは賢明じゃないって思うのも……きっとわかるよね?」
「……それは、わかります」
「よかった。気持ちが決まったら、教えて」

 約束だよ、と多田の小指が差し出される。わかりましたと返事をしようとすると、後部座席の彼が「触るな」とだけ警告して雫の手を胸元へ戻した。

「うわお前、過保護すぎ!」
「お前が多田に嫉妬する日が来るなんて信じらんねえな」
「今からそんなんだと嫌われんぞ!」

 メンバーは隆介の行動をここぞとばかりに野次る。うるせーと言いながら席に戻る隆介の耳は赤い。10歳も離れてると過保護にもなるんだねぇと揶揄う多田の声は、雫にだけ聞こえていた。
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