ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!

雫の過去

 あの日のライブは、まさに伝説級のライブだったらしい。収録後再編集されたライブ映像は、映像配信サイトの急上昇ランキングで1位を取り続け、日本だけではなく全世界に強く印象を植えつけた。

 曲だけで売ってきたEssentialsにとって、全面露出の解禁は間違いなく新しい武器だった。彼らは地上波の生放送番組をハシゴしたり、情報番組にコメントを送ったり、多忙を極めている。
 
 ――雫不足すぎて死にそう。ほんとに。
 ――明日休みでしょ?25時には帰れるはずだから、うちで寝てってよ

 全く時間が合わなくなったふたりは、スケジュール共有アプリで互いの休みを共有している。なかなか帰宅できない隆介は、雫のスケジュールを見てよく連絡をくれた。とはいえ帰宅時間は遅く、隆介は雫の寝顔を見て仮眠し、雫が起きるより早く家を出る。正確には下層階にいることも多いのだけれど、同じ家にいると思うと会いたくなるので、出て行ったのと言い聞かせている。

 ご飯作って待ってるねと返すと、すぐに既読マークがついた。

 「……私も、会いたいんだけどな」

 彼からの言葉は素直に嬉しくて、もうきっと大丈夫だと思っていたはずなのに、なぜか目頭が熱い。彼が「俺に愛されててよ」と言ってくれたから、その言葉だけを信じていればいい。信じるだけで頑張れる――はずだった。
 
 多田から覚悟はあるかと聞かれた日以来、雫は時間ができるたびに自問自答を繰り返している。

 ただ彼が同じ家に帰ってきて、一緒に食事をしたり、映画を見たりしていた過去が恋しい。キスすると顔にかかって邪魔だね、なんて笑いあっていた彼の髪にすら、今は手が届かない。もっとすごいことを成し遂げている人に求めすぎてはいけないと言い聞かせ、必死で心の暴走をセーブしている。

 気付けば彼のことを考えていて、彼らが選んだ道を素直に応援できない彼女なんて、居てはいけないんじゃないかという疑問が、雫の頭を支配していた。会えない時間が愛を育てるという曲があるけれど、今の雫にそんな余裕はない。こんなにも自分勝手で狭量な自分を、多田は見抜いていたのかもしれない。

 ◇◇◇

 時刻は23時すぎ。彼が25時に帰ってくる可能性はあまり高くない。彼はいつも「ちょうど寝ちゃったタイミングだった」という優しい嘘をつく。3時に肌寒さで目が覚めても、隆介が隣にいなかったことだって、本当は何度もある。彼が忙しいことも、深夜誰からも連絡のこない時間の方が仕事が進むこともわかっているから、わがままは言えない。

 52インチのテレビをつけて、サブスクリプションサイトを開く。ローディング中に、冷蔵庫にあった飲みかけの白ワインをあのマグに入れて、ソファに戻った。

 迷わずに開くのはいつものあの映画。部屋を暗くし、あのハルシュタットの夜と湖を思い出しながら、マリアと一緒に口ずさむ。心の沈んだ自分を癒してくれたあの湖へ、またいつかふたりで行けたらいい。

 〜〜♪
 ……and i will sing once more

 見えない相手を想像して、冷えたマグで乾杯する。セリフを覚えるほどに見ている映画なのに、今日は冒頭の讃美歌が胸に沁みる。

「――こういう生活してたらこんなこと悩まなくても済むのに」

 一瞬、想像してみる。けれど、きっとこの主人公のように、従順――目上の者に従うこと、貞潔――独身を守ること、清貧――私有財産を持たないこと、大切な3つの規律はどれも守れず、いつまでも怒られそうな気がする。田舎から出てきた当時ならともかく、今の自分は乱れすぎていてとても難しそうだなと鼻で笑った。

 雫は続きを見ながら、隆介を思い出していた。彼にただ甘えたがるだけの小娘ではいたくないのに、相手に愛の全てを求めてしまう。それ以外の方法が見つからない。彼はそんな自分で良いと言ってくれるけれど、雫は所詮アラサーだ。じゃあ40になったら?50になったら?一緒にいる未来を想像するとたまらなく怖い。その時の彼は、それでもそのままの自分を魅力的だと認めてくれるのだろうか。

 今の自分では、彼を支えるにはまだ力不足すぎるとわかっているけれど、どうもがいて、どう頑張ればいいのか。もがき方さえわからない今の自分は、もがくこともないまま嫉妬と不安の海で溺れ死んでしまいそう。

 いつか嫌われるかもしれない、また飽きられるかもしれない。そんなはずがないと思う気持ちと、でもこの先は誰も知らないからという不安がぐるぐると渦巻く。

 しっとりとした肌触りのソファの上で両膝を腕で抱えて、そのまま続きを見る。思春期の少女の歌は、この年には複雑だ。16でも思慮を手に入れると謳っているのに、自分はただ彼に抱きしめられたいなどと甘いことを考えている。

「ねえ、抱きしめるなら膝じゃなくて俺にしてよ」
「えっ隆介さん!?わ……っおかえりなさい!」
 
 家主は入り口からキャップもマスクも外さず、一直線に雫へ近付き、抱きついてきた。柔らかでとろみのあるトップスが頬を掠める。首元からする彼の香りは、いつもよりタバコの割合が高い気がする。

「今日すっごい早いですね!きっと0時すぎるかなーって、思ってました」
「もう俺が無理すぎて、帰ってきちゃった。多田はまだ下にいるけどもう限界」

 癒しのない生活は1週間が限界、と呟いた隆介は、雫の首を倒すようにして反対側からそのままキスの雨を降らせた。
 
「……んっ……んぅ……っ」
 
 いつもと違う向きのキスは新鮮だ。そのうち雫は全身の力が抜け、体の芯が熱くなっているのを感じた。激務で疲労感だらけの彼のはずなのに、そんな彼の舌だけでぞくりと背筋を震わせてしまうなんて。ようやく解放された雫の目は、無意識にとろりと潤んでしまう。

「雫、それは可愛すぎ。そのままベッドまで運んでいい?」

 背もたれ側にいたはずの彼が、いつの間にかキャップとマスクを外し、テレビとソファの間に立っている。会いたい、声を聞きたい、彼に触れたいと望み続けていた身体はもう期待してしまっている。目の前に望んでいた人、本人がいるというのに、拒めるはずがない。それでも、残りわずかな良心で、彼を拒んでみる。

「えっもう遅いし、ご飯だってまだで……」
「そんなの、どうだっていい」

 彼の長い腕がソファに足を乗せて三角座りしていた、雫の膝と腰を掬い上げる。隆介はそのまま雫を寝室へ運んだ。彼の首元を抱きしめるように掴まると、キャップで長時間押さえつけられていた髪には被り癖がついている。

「今日も、お疲れ様でした」
「ん。でもこういうご褒美があるから頑張れる。来てくれてありがとう」

 雫を抱き上げたままの隆介は、顔を雫の胸元へ顔を近づけて擦り付ける。雫だけが知っている、隆介の甘えたい時の癖。ほのかな胸でもこうやって喜んでくれていると、こちらも暖かな気持ちになる。

 ゆっくりとベッドへ降ろされた雫は、隆介の腕の中にすっぽりと収まった。同じ壁の方を向いているから、少しだけ素直になれる。包むように降りてくる左腕に自分の腕も絡ませて、言葉を続けた。

「……さっき。本当は、早く抱きしめて欲しいって思って、見てました」
「ロルフとリーズルのシーン?」
「そう。『書き出しはこうよ。――愛するリーズル。僕の心はいつも君のことでいっぱいだ』って」
「You are sixteen going on seventeen Baby, It’s time to think♪
 ――いい歌だよね。俺も好き」

 覗き込む隆介の少し掠れたセクシーな歌声は、雫をドクドクと高揚させる。聴き慣れた音源とはまた違う生の歌声。どんな顔で話しているのか気になったようで、隆介は少し上体を起こして雫の方を見下ろした。首筋を隠す長い髪を指でさらりと退け、隠されていたその白い道へキスを落とす。こうして暗い部屋でふたりきりになっている瞬間だけは、彼が自分だけのもので、自分もまた彼だけのものだと思える。

「私ね、幼い頃、ピアノをやってたんです。リーズルが着ている薄いピンクのドレスに憧れてて、発表会の時は決まってああいうふわふわしたドレスを着せてもらいました」
「昔もきっと可愛かったんだろうな」
「ふふっどうでしょう。自分の指先一つで違う音が出て、やればやるほどその音色が増えて……今思えば好きだったんだと思います」
「好き、だった?」
「前に父の話をした時、他界してるって話しましたっけ。うちの両親、私が19の時に事故で亡くなってるんです。妹も……一緒に。」

 隆介は黙って雫の話を聞いてくれる。ほんのりと指先が冷えてきたことに気づいたのか、足元で畳まれていた毛布をかけてくれた。ふっくらとした毛布は猫のように柔らかで暖かい。

「私の校内コンクールの日、私は先に会場へ向かっていて……見に来てくれるはずの家族は来ませんでした。自分の番が終わって、先生が血相を変えて控え室へ走ってきて、そのまま病院まで車を出してくれて。大好きだったピンクのドレスが、そのまま……喪服に、なっちゃって」

 そのまま音大を辞めたこと、ピアノには触れていないこと。ぽつりぽつりと呟くように、浮かんでくる言葉をゆっくり話した。隆介は子供を寝かしつける時のように、大きな手のひらで肩を撫でながら話を聞いてくれた。

「だから、良い思い出も悪い思い出も、全部……あの映画と一緒にあるんです。私」
「ん……。話してくれて、ありがとう」

 大きな彼の体が、雫を全身で抱きしめた。絡み合っている足も、雫を離そうとはしない。解放されたと思ったら、横向きだった体を仰向けにされ、横から隆介が覆い被さってきた。すぐに顔をがぶつかりそうなほどの至近距離で、隆介は一筋の涙を流している。

「辛い思いをしてきたかもしれない。雫のその辛さは、想像することしかできない。それでも、生き残ってくれて、こうやって俺に出会ってくれて、ありがとう」

 頭を撫でる手は心なしか少し震えている。そのまま降りてきた手のひらで、頬を包まれた。彼はミュージシャンではなく、ただの近衛 隆介として目の前にいてくれる。その姿に安心した雫は、久しぶりに感じられる彼の腕の重みと暖かさの中で眠りについた。
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