蜜愛契約結婚―隠れ御曹司は愛妻の秘めた想いを暴きたい―
『慣れない初々しさもたまらないが、夫婦になったんだからこの距離感が当たり前になってほしい』

 それ以降も〝夫婦の距離感に慣れる〟を大義名分に、葵さんは『かわいい』『愛してる』と甘い言葉をささやき続けた。
 からかっているのかもしれないが、言い返せるような余裕は私にない。車に乗り込んだ頃にはすっかり疲弊していた。

 葵さんの言動が嫌なわけじゃない。ただ彼との距離感が掴めなくて、戸惑っているだけだ。
 いろいろと限界で、帰宅後は一目散に自室へ逃げ込んでしまった。
 それに葵さんは気を悪くしていないだろうかと、すぐに後悔する。

 他人に嫌われるのを過剰に恐れてしまうのは、きっと母親との関係が影響しているのだろう。
 父が出て行ってからは、常に彼女の顔色をうかがって生きていた。
 唯一の肉親に嫌われたくない。その一心でいい子を演じ続けていたせいか、親しくなった人からそっぽを向かれるのが怖くて仕方がない。

 いつまでも閉じこもっているわけにはいかず、しばらく経ってからそろりと部屋を出た。
 葵さんはリビングで雑誌を読んでいたようで、私の姿に気づくと優しく微笑みかけてくる。どうやら怒っていないようだと、ほっとした。

「そろそろ、夕飯をつくりますね」

 キッチンに向かう私に、葵さんまで立ち上がってついてきた。

「葵さんは、休んでいてください」

 砕けた口調はまだ難しく、敬語が抜けない。夫婦らしさを演じるためには、口調にさらに気をつける必要がありそうだ。

「かまわない。手伝うよ」

 同じ会社に勤めているとはいえ、営業部長である彼の仕事量は私の比ではない。
 平日に定時で帰宅できる日はほとんどないと、一週間でよくわかった。だから休日くらいは、ゆっくりしてもらいたい。
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