アヤメさんと僕

朝一でやってきた客

美容師の僕には、新人のときに出会った忘れられない人がいる。

***

冬の朝のことだった。

開店前にドアが開いたと思ったら、手押し車を押した小さな老女が立っていた。
背中が曲がっている分、顎が上がり、心持ち息も上がっている。
カウンターまで進もうとする足は歪曲し、ガニガニと歩くたび、体が左右に振れた。

ようやくカウンターにたどり着く。
「予約してへんけどよろしいか?」
――まずいな。今朝、スタイリストには全部予約が入ってる。
「えー、本日はどうなさいますか」
「シャンプーとセットを」
それならアシスタントの僕にもできる。
ホッとして、初回だという彼女にカルテのバインダーを渡した。

返ってきたカルテを見ると93歳。
名前欄には『園田綺女』とある。しわだらけの手が書いたとは思えない美しい字だ。
が、何と読むのだろう。
「えっと『そのだ……』?」
「『あやめ』です。似合うてはいませんがな」
彼女はムスッとし、顔をそらして答えた。
どうやら自分の名が好きではないらしい。
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