初恋のお兄ちゃんはIT社長?!執着社長の溺愛デイズ

天沢由紀は諦めた

 広い天井の部屋で、ベッドのスプリングが軋む音がする。

 体はやけに熱くて、宙に浮いているよう。意識はふわふわとしていて、そっと肩までかけられた羽毛布団と一緒に、どこかへ飛んでしまいそうだ。

 ひとり暮らしの私の部屋は、築52年の古アパート。就職と同時に上京した時、知り合いもいないところへ行くのが不安で、生まれ育った祖父母の家に似ている間取りの部屋を借りた。時々大家さんから差し入れを貰えたり、野良猫の井戸端会議に参加することもある、楽しいお家。

 それなのに。
 
 私はどうして、こんな豪華な部屋にいるんだろう。まるで不動産女子憧れのマンション、ラフォール代官山のモデルルーム。必要最低限のインテリア、品のいいカーテン。生活感のない中にもきちんと家主のセンスが光る。

 サッとかけられた肌掛けも、今まで使ったことのある布団のどれよりも触り心地が良くて、指先で無意識にフニフニとつまんでしまう。

「こんなお家に住めたら……幸せだろうなぁ……」

 自分の隣で誰かがフッと笑う声がしたけれど、その声の主を確かめられないまま、由紀は静かに眠りに落ちた。

 ***

 天沢由紀、26歳。『傘が3つのミ・カ・サ!』のCMでお馴染みのミカサ不動産 恵比寿店で働いている。成人したら美容や恋愛に興味を持つと思っていたのに、そんな春はまだ、訪れていない。

 特に理由もなく伸ばしていた黒髪は、髪を整える時間よりも睡眠時間をとりたいと新卒1年目に切って以来、ずっとボブを維持したまま。151センチという低めな身長も相まって、年齢より幼く見られることが多い。こんな地味な見た目の自分がこんな都会なエリアで働くとはと思っていなくて、赤羽に家を借りてしまったので、いつも片道40分ほど満員電車に揺られて通勤している。
 
「天沢ァ! お前この店の紅一点なんだからさ、もう少し可愛げある顔で対応しろっていつも言ってんだろ? な?」

 こうやって毎日絡んでくるのは、上司の広谷店長。
 他店舗で驚異的な売り上げを叩き出して、客単価の良い恵比寿店へ栄転してきた人だけれど、大きな声に唾が飛ぶような喋り方、ポマードで固めたオールバック……ほとんど全てが苦手なタイプ。

「あはは……そう、ですね。気をつけているつもりなんですが……」
「してるつもり、じゃ意味ねぇんだよ? してるって伝わらないと。そうだろ? なんか違うことあるか?」
「あっ、いえ、はい。もっと伝わるように、頑張り、ます」
 
 少し伸びた髭が頬に当たりそうなほど近くで肩を組んでくるのも、気に入らない。けれどこのくらいで根を上げていては、社会人として他の会社でも生きていけないはずだからと、必死で耐えてきた。

 けれど、その日だけは耐えられなかった。

 朝からなんとなく寒い気がして、スーツの中にカーディガンを着込んできた。それなのに、寒くてたまらない。エアコンがよく当たる席からは一番遠い、入り口横の席で、由紀は必死に休憩時間が来るのを待っていた。

「天沢ァ、お前今日午前何組対応した?」
「新規相談1組……です」

 窓口で今説明を受けているのは、仕立ての良いスーツ姿の男性がおひとりだけ。他の社員たちは早めの休憩に行っていて、あと15分ほどで帰ってくる。その帰りを待っている15分で、機嫌の悪そうな店長に絡まれてしまった。
 
「午後は何組予約入ってんの?」
「新規が1組、内見が1組です」
「お前の最低ノルマは?」
「1日5組、です」
「うんうん……。で、5引く3なんて小学生でもできると思うけど、どうすんの?」

 ご来店されてるお客様に聞こえないような小さな声で、店長は由紀を詰める。ノック式のボールペンを何度もカチカチと鳴らしながら、店長はイライラをこちらにぶつけてきた。
 
「この後、表でチラシ配って、来店を促します」
「この後? 座ってんなら今行けよ」
「でも、そろそろ先輩方も帰ってくる頃なので……」
「へえ、先輩が帰ってきたらお客さんが増えるの?」
「いえ……」
「ならさっさと働きなよ。給・料・泥・棒・さん」

 店長は由紀のライトグレーのスーツの襟首を掴んで、何のために仕事してるんですかぁ?などと耳元で煽る。透明なパーテーションと2台の画面に阻まれているとはいえ、窓口で説明を受けているお客様と目が合いそう。不安で押しつぶされそうになった由紀は、自身のカウンターに設置した「お引越しサポートキャンペーン」の三つ折りチラシの束を掴んで外へ出た。

 ミカサ不動産 恵比寿店は、1階が不動産売買、2階が賃貸と別れていて、雪は主に賃貸物件の管理と紹介を担当している。カーペットでふかふかとした足元が、今日ばかりは恨めしい。手すりに捕まりながら1歩、また1歩と歩く。今日は何故かカーペットにヒールが沈んで、とても歩きづらい。

 階段を数歩降りたところで足がもつれ、手に持っていたチラシが宙を舞う。あと15段ほどある階段に座り込んでいると、なぜかチラシが花吹雪のように見えて、拾うことも忘れて見つめてしまった。後頭部がガンガンと殴られているように痛い。

「はぁ……さむ……」

 足元に散らばったチラシを1枚ずつ拾う間にも、悪寒は由紀を襲う。必死に深呼吸をして、手を擦ったり、太ももを摩ったりして体温を上げようと努力するも、由紀の体は一向に暖かくならない。

 段差に座ったままの体制で、1段ずつ降りてはチラシを拾い、拾っては1段降りる……を繰り返して拾うも、回収は一向に進まない。ついに数回のくしゃみが出た後、由紀はそのまま壁に持たれるようにして意識を手放した。
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