初恋のお兄ちゃんはIT社長?!執着社長の溺愛デイズ

天沢由紀は巡り合う

 20時間近く寝ていては流石にお腹も空くものだ。申し訳なく思いつつもドアを開けて、家主に交渉しようと歩を進める。キッチンまであと数歩手前というところで、リビングから男性の声が聞こえてきた。

「……の件は……の評価を下げざるを得ない。昨年に比べても……で……従業員が怯えてる。あと……」

 聞こえてきてしまったとはいえ、他人の評価を盗み聞きしているようで、気分は良くない。都内でこの家の間取り、評価という話からして、自分とは比べられないほどのポジションにいる人だろうという予想がつく。
 
(これ以上迷惑をかけても私に返せるものはないし、早くこの家を出なくちゃ……)

 抜き足差し足で歩いてきた廊下を振り返る。もう一度ゆっくり戻って着替えようと、また静かに歩き出そうとした瞬間、後ろから肩を抱き寄せられた。

「そうか……その件は慎重に調べて欲しい。あとはメールで送っておいて。この後すぐ読むから。じゃあ」
 
 耳元で電話が切れて、おはようと声をかけられた。汗臭い気がしていて離れようにも、腕の力はしっかりと強い。綺麗な顔をしていても、やはり男の人だった。

「由紀ちゃん、お腹すいた?」
 
 元々薄化粧だけど、流石に熱と汗で化粧が崩れている自覚がある。覗き込まれるとしっかりと見られそうで俯いた。

「あれ?あの、私の名前……」

 教えたつもりもなければ、彼に名前を尋ねた記憶もない。どうして?という表情で見つめると、彼はくすくすと笑いながらキッチンへ歩いて行く。それは、どういう笑いだろう。

「由紀ちゃん、昔も熱あるのに無理しようとしてたよね。遠足行きたかったって泣いたりしてさ」

 懐かしい話を持ち出されて、気が付いた。その話を知っているのは両親と、あの人だけ。

「え、もしかして……ヒロくん?」
「うん、気付いてもらえてよかった。俺のことなんてもう忘れられてるかと思ったよ」

 ヒロくん、阪本 宏樹くん。

 にっと笑った口元は、確かに当時のままだ。5つ上の近所のお兄ちゃんで、私の初恋の相手でもある。いつもそばにいたかった私は、ヒロくんが全寮制の男子高へ入学するまで、いつも後ろをついて回って歩いていたっけ。

 まだにわかには信じられないけれど、目の前で話している彼は時々昔の面影のある表情をする。
 
「でもどうして、私に気付いたの……? どこかで会った……?」
「俺今、ITやってて。それ関連で昨日不動産屋を覗いたら、そこに由紀ちゃんがいたから」

 物件情報を見繕って帰ろうとしたら階段で倒れてて、びっくりして運んじゃったよと笑う。笑う時、口元を軽く抑える癖に見覚えがあって、本当に彼なんだと感動してしまった。

「あっそうだ、後輩がヒロくんのこと、彼氏って誤解してて……なんかごめんなさい」
「あ、いや、それ、俺が誤解させたかも。連れ帰ると変に怪しまれるかと思って。名刺渡して、身内なんでって言っちゃったんだ……ごめん」

 くつくつと音を立てている小さな土鍋の火を止めて、ダイニングテーブルの上に用意された鍋敷の上へ土鍋を置いた。彼が蓋を開けると、ほわっと優しいお出汁のいい香りがする。

「まずはお腹空いたでしょ。話よりこっち、優先して」

 彼においでと手招きされるとそこへ行きたくなるのは、まだあの頃の淡い初恋が残っているからかもしれない。さよならを言えずに置いてきた初恋が、10年の時を経て密かにドキドキと胸を高鳴らせた。指示された椅子へ素直に座りお手製の雑炊をいただくと、体はポカポカと温まってきた。

「ヒロくんのご飯のお陰で、なんだかあったかくなってきた気がする。ご馳走様です」
「そう?ならよかった。熱測ろうか」

 棚に置かれた小箱から体温計を取り出して、ヒロくんは私に手渡した。その手はそのまま、私の額を覆う。

「うーん。まだ熱、ありそうだけどな」

 ドキドキと早まる鼓動がバレないように、そっと深呼吸してから体温計を脇へ挟んだ。10秒……20秒……30秒……待っている間にも耳や首が熱くなり、熱が上がったように錯覚する。

 ――ピピピピピ

 通知音の鳴るまでこちらを見つめていたヒロくんはこちらに手を出して、体温計を見せろと要求している。ヒロくんは面倒見が良くて頑固だから、こういう時は素直に聞かないと引いてはくれない。脇から取り出して、そのまますぐヒロくんに渡すのだけが正解だ。

「……38.8度しっかり高熱。はい、今日も寝てくださーい」
「う……。でも今日は結構問題起きてて……」
「それなら尚更寝てなきゃ。熱のある由紀ちゃんが出社したら、問題がもうひとつ増えるだけでしょ」
「それは……そうかもしれないけど」
「けど? 何か反論があるの?」
「私の代わりに上司が対応してくれたことが、炎上してるみたいで……私もお客様に誤解されてて……」

 いつもならこんな事でしどろもどろになったりしないのに何故だろう。ヒロくんが聞いてくれているからか、熱があって感情がおかしいのか、実は悔しさを感じているのか。瞳からポタポタと涙が溢れてくる。

「ネットの誤解は……っ解かなきゃ、いけないし……私が、ちゃんとっ……体調管理、出来てれば、こんなこと……にはっ」

 わがままを言う子供のようだなと、自分でも客観視してしまう。それでも溢れる涙が止まらなくて、借りた長袖Tシャツの袖で涙を拭う。
 
 気付けば、テーブルの向かいに座っていたヒロくんがいつの間にか傍にきていて、寄り添うように立って私の背中をさすってくれていた。

「どうやら、俺が助けてあげられることがありそうだね。知ってる事情を教えてくれる?」

 彼の持つITの力でなんとかしてくれると言うのだろうか。まだどんな仕事をしてるかも知らないのに、頼っていいものか。分からなくてワナワナしていると、話すだけで楽になるよと言われ、素直に話すことにした。

「昨日私が帰った後、店長が対応してくださったお客様に、心理的瑕疵の項目を説明しなかったみたいで……」
「心理的瑕疵って、自殺とか、そういう?」
「そう。それで……そうやって不当な家賃で住まわせて、利益を上げてる……みたいなデマが、SNSや口コミにも書かれちゃってるみたいなの」

 由紀自身はデジタルに明るくない。ヒロくんに話していくうちに、今日自分が行っても足を引っ張るだけのような気がしてきた。

「確かに、こんな私が行っても問題解決には至らないかも……」

 そうでしょ?と笑ったヒロくんは、私の涙の筋を指先でスッと拭った。
 
「口コミとSNSはちょっと見てみるよ。分からないことがあったら相談させてほしいし、ひとりで家に返すのも心配だから、由紀ちゃんは俺のためだと思ってうちにいて?」
「ありがとう、ヒロくん。それじゃあ、お言葉に甘えて……今日も泊めてもらおう、かな」

 大好きだったヒロくんから「俺のため」と言われてしまうと、断りきれない。素直に頷いてシャワーを借りたいことを伝えると、彼は熱が37度まで落ち着いたらねと約束をして、私を抱え上げてベッドルームへと移動した。

(全てがスマートで、なんだか王子様みたい)

 時計を見るとまだ6:30。一般的にはまだ休んでいる時間であることを考慮して、店舗と先輩、そして念の為芹沢まで宛先に加えて、体調不良のメールを入れた。

 すぐに芹沢から「俺はどうしたらいいんでしょうか?!」とメッセージが来たので、「エリア部長と先輩と決めて」と返して、スマホを閉じた。

「由紀ちゃん、寝る前のスマホは体に毒だよ」

 彼は、枕元で芹沢からのメッセージ通知を受け取って光るスマホを取り上げて、少し離れたところにあるサイドテーブルに、画面を伏せるようにして置いた。

「もうしばらく、おやすみ」
「ありがとう、ヒロくん」

 すっぴんのアラサーに、出会った当時と同じように優しく接してくれる彼の優しさが、今は嬉しい。今だけは許して欲しいと願いながら、彼の香りのするベッドで目を閉じた。
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