鳳蝶は僕を魅了する
鳳蝶
『鳳蝶』
それは至高の姿で僕の前に現れる。
美しくて、軽やかで、そして少し毒のある。
僕、藤堂律が初めて見た彼女はまさにアゲハ蝶だった。
甘い蜜のような香りに白い肌。
胸の辺りまである、ゆるく巻かれた髪の毛を耳にかけてしゃがみ込む。
「大丈夫?」
気品のある声が聞こえて顔を上げると、後ろにある大きな月が彼女の背中を照らしていた。
僕は今怖いくらい、この人に心を許してしまってる。
この恐ろしく人間離れした生き物の前で。
同じ高校の緑のネクタイをつけているのは、暗くてすぐには気づけなかった。
「僕は、、、大丈夫です」
こんな人いた?
こんな綺麗な人が同じ学校にいたら、見逃すわけがない。
この学校で一番、綺麗な人は?と聞くと誰しもがこの人の名を答えるのは間違いないと思う。
噂として広がっててもおかしくない。
だからなのか、僕はこの人を知っている気がする。
なのにどれだけ考えても誰なのか全く思い出せない。
名前も何組なのかも、何もかもがわからない。
ふと、彼女がこちらに笑いかけた。
頬の傷口に細くて白い指が、ゆっくりと伸びてくる。
夜空が似合う独特な雰囲気。
こんなみにくい姿、見せてはいけないと本能が訴えてくるが、もう体が動かない。
緊張で身体中があつくなっていく。
「なら、良かった」
そう言って彼女が微笑んだその瞬間、僕の思考が止まった。
あれ今、どうなってる?
ああ、、、
もっとその痺れるように美しい声を聞きたい。
またその細くて綺麗な手で触れて欲しい。
僕は完全に彼女に魅了された。
ことの発端は夏休みが明けた、8月の下旬だった。
夏休み明けのテストも終わり、もう校内は文化祭一色。
時刻は午後六時半。
「藤堂くん、もっと声出して」
監督の八重垣くんが僕に指示を出した。
流石に2時間動きっぱなしはきついと思いながらも練習に集中する。
このクラスは、白雪姫をやることに決まっているが、僕はクラスメイトの指名で王子役になってしまった。
こんなにしんどいなら断ればよかったな。
もう座ってスマホを触っている人も多い。
「じゃあ、今日はもう解散にしようか」
八重垣くんはそんなみんなの様子を見たからか、解散の指示を出した。
やっとかと荷物をまとめてそそくさと出ていく人もいるくらいだ。
そして僕も教室のドアに向かって足を進めようとして、踏みとどまった。
みんなを見送ってから帰ろう。
「八重垣くん、片付け手伝うよ」
「ありがとう」
八重垣くんが一人片付けをしているのを手伝って、それから帰っても遅くない。
「さすが王子だな」
「一緒に帰ろうぜ」
片付けをしているうちに男子数名が話しかけてくる。
王子というのは王子役をしている僕についたあだ名だ。
元々、中学の時まで通っていた五月雨学園、理事長の息子であるからというのもあるのかもしれない。
「ごめん もうすぐ終わるから」
「藤堂くん 本当にごめんね」
申し訳なさそうな顔をした八重垣くんに、僕はいいよと返して彼らの元に向かった。
靴箱の前にいた彼らに声をかけて、僕も靴を履き替える。
「俺、最近出たコンビニのクジ引きたいんだけど 王子は行ける?」
そういうものに疎いので詳細はわからないが、とりあえず頷いた。
よっしゃ、きまりと歩き出す彼らについていく。
ゲームの話題。コンビニのクジとやらの話題。どれにもついていけずにただ話に頷いている。
外はもう薄暗くて、街灯が僕らを照らす。
コンビニによって、よくわからないカードの入ったお菓子だけを買って彼らと一緒に開けた。
そしてここからは僕だけが帰る方向が違うので、別れを告げる。
「じゃあ僕はこっちだから」
「おう、また明日な」
曲がり角を曲がってしばらくは彼らの楽しそうな声が聞こえた。
上を見上げると月がもう出ている。
まだ夏なのに、もうあたりは薄暗かった。
家まではもうしばらく歩かないといけない。
コンビニから少し離れたところ。
高架下の曲がり角を曲がったとき、僕はすぐに足を止めた。
「あれ、藤堂じゃん」
「不正して、違う高校行ったってマジだったんだ」
そこにいたのは中学の時に通っていた五月雨学園の二人組の生徒だった。
そして嘲笑うように僕の方を見ている。
「ずっとテストで1位で怪しいと思ってたんだよな」
「流石にここまできたらわかるわ」
もう関係ないと思っていた。
中学の時ずっとそう言われ続けて、誰かに認めて欲しくて、公立の高校に来たのに。
だから今、父親は僕のことに口出ししなくなった。
「お前は理事長の息子だってこと秘密にして、テストの点数改ざんしてもらってたんだろ」
なんていうのが正解なんだろうか。
なんて言えば認めてもらえるのだろうか。
「僕は君たちと対等に仲良くしたかったから秘密にしてた」これは自分の本心で間違ってはいない。
「成績改ざんはしてないよ」
大丈夫だ。
その言葉を自分に言い聞かせるようにして心の中で念じる。
「は?」
「そんな言い訳じゃ説明つかね〜だろっ」
顔をしかめた時にはもう遅かった。
殴られたんだ。
バランスを崩して、その場に座り込む。
「あーあ、イケメンが台無しだな」
「ははっ、なんか懐かしいな」
何も言わないでいると彼はまた僕を殴ろうとする。
反射的に目をつぶる。
やり返したところで敵わないし、誰が見ているかもわからない。
とにかく終わるまで、殴られるしかない。
そうやって覚悟を決めていたのに、拳が顔に当たることはなかった。
周りが静かになった気がして、おそるおそる目を開ける。
「やめてください」
彼は右腕を掴まれていたのだ。
それも細い女の子に。
「お前、誰だよ」
彼の振り払おうとする動作に、僕は体が動いた。
僕のせいで怪我させるわけにはいかない。
そんな思いで立ちあがろうとしたが、その必要はなかった。
彼女は彼の腹を思いっきり蹴ったのだ。
「ぐっ」
そのまま地面に、座り込んでまだ唸っている。
彼女は左足を前にして、手のひらを上に、拳を握る。
「もう、帰ってください」
怒っているような感じで、彼らをにらむ。
僕らは何も言葉を発せなかった。
なんとも言えないくらい彼女が美しかったから。
制服のボタンを上までとめて、やけに長いスカートを履いているのに顔だけではなく、体までもが綺麗だった。
恐怖の感情も忘れて見惚れてしまうほどに。
さっきの蹴りを入れたのも、なんだかアゲハ蝶を連想させるような身のこなしだった。
しばらくの沈黙の後言葉を発したのは僕ではなかった。
「俺もう帰るわ」
それに続いて、もう一人も走って逃げるように帰っていく。
不思議な空気をまとった彼女には勝てない。
これは動物の本能なのだろうか、多分ここにいる人たちはみんなそう思っただろう。
「大丈夫?」
女の子に助けてもらうなんて、情けない。
文化祭前の大事な時期に怪我をして、みんなにも申し訳ない。
手当をしてもらって、彼女がさろうとした時、僕は声をかけた。
「君は、誰? 今度お礼したいから、名前だけでも教えてくれないかな」
声をかけたのはこっちなのに、ものすごく緊張する。
彼女は少し寂しそうに眉を下げた。
なにか気に触るようなことを聞いてしまったのか。
一瞬の沈黙がとても長く感じる。
彼女は照れ笑いのように眉を下げたまま僕に微笑みかけて、教えてくれた。
「アゲハ」
「よろしくね」
こんな光景、僕はもう死んでしまったのかもしれないと思うくらいに綺麗だ。
蝶は死んだ人の魂を迎えに行くと言う意味もあると、前に本で読んだことがある。
僕がアゲハ蝶みたいと思ったのは、そういうことだったのだろうか。
彼女はその場からさっていく。
僕はその背中をしっかりと見つめて目に焼き付けた。
『アゲハ』
僕は何回かその名前を心の中で唱える。
そして決心した。
彼女を探し出して、お礼をすると。
お礼をするはただの口実で、本当はまた彼女に会いたいだけなんだけど、今はそれでいい。
僕はそんな思いを胸に、目の前の大きな月を見上げた。