追放された歌姫は不器用な旦那様に最愛を捧ぐ

21.その歌姫は、立ち上がる。

『日常会話に困らないレベルで声が出せるようになりたいの』

 そうエレナが文字を綴ったのは、ソフィアの定期検診後の事だった。
 旋律を口ずさむ時は当たり前のように音になるのに、言葉として声を出し会話をしようと口を開くと何故か自分の中から音が消える。
 
(ここの人達は、父やマリナ達とは違うわ)

 どんな反論も許されなかった生家での暮らし。言葉を紡げば否定され、侮蔑と嘲笑で自尊心を傷つけられた記憶。
 染みついたそれらは喉が焼けつくような痛みと恐怖を伴って、エレナから声を奪う。
 だけど、とエレナは顔を上げる。

『エレナ』

 当たり前に名前を呼んで、ちょっと乱暴な動作で頭を撫でてくれるルヴァルの手の温かさを思い出す。
 危なくないようにと手を引いて、自分の大事なものを見せてくれ、好きなモノを行動で伝えようとしてくれる、少し不器用な優しい人。

「な……まえ」

 ルヴァルだけではない。
 リーファをはじめとした侍女達も美味しいごはんを作ってくれる料理人たちもずっと心身のケアに尽力してくれたソフィアもドラゴンに会いに行く度に気にかけてくれる騎士達も、当たり前に気遣い声をかけてくれるように。

「わ……たし、……の、大事、よ……び……たい」

 大事にしたいと思った人達がいる。
 その人達の名前が呼びたい。
 声に出して、感謝の気持ちを伝えたい。

「も、な……に、も……」

 もう、何も。
 何一つ、大事なモノを失くしたくない。

「わたし、は!」

 もう何も、奪われたくない。
 誰にも、踏み躙られなくて済む強さが欲しい。

「だ……から」

 力を貸してもらえないだろうかとエレナは真っ直ぐソフィアを見つめる。
 ソフィアはエレナの紫水晶の瞳を見て微笑んだ。
 初めて出会った時のエレナは心身ともにボロボロで、紫水晶の瞳には全てを諦めたような色が浮かんでいた。
 だが、今の彼女の目には闘志にも似た確かな意志が宿っており、凛として前を向こうと立つその姿は人目を引くほど美しい。

(お館様が生来の彼女はこんなものではない、と言っていたのが分かるわ)

 これはまた、随分と磨き甲斐のありそうなと笑ったソフィアは、

「では、発語のためのリハビリを始めましょうか」

 ちょっとスパルタ気味で、と楽しそうにそう言った。

 ソフィアが用意したエレナのための訓練プログラム。
 それをこなすのがエレナの新しい日課になった。
 エレナが真面目に取り組む様子を見たソフィアはデータを分析しながら、ふむと頷く。

「確かにスパルタ気味で、とは言いましたがエレナ様そう焦る必要はありませんよ?」

「で……も」

 この時間はなるべくスケッチブックを使わずに、ゆっくり無理のない範囲で声を出して話すとなっているので、ソフィアの指示通りエレナは訓練に取り組んでいた。

「無理をして出せるようになるものでもありません。心の負担が増しては尚更声を出しにくくなりますし」

「あっ……」

 聞き取りづらいだろうに根気強く付き合ってくれるソフィアに感謝しつつ、エレナの中で焦燥感があったのも確かだった。

「今日の訓練はここまでにしましょう。エレナ様が楽しくないと意味がないので」

 にこっと笑ってそう切り上げるソフィアに申し訳ない気持ちになったエレナは咄嗟に謝ろうとして口をつぐむ。

「あ……り、が……と」

 感謝の言葉の方が嬉しいです、といってくれたリーファの顔を思い出し、エレナは素直にそう口にした。
 気遣ってくれてありがとう、と気持ちを込めて自然に微笑みながら。

「いいえー。お休みも大事です。また訓練しましょうね」

 あら可愛いとエレナの黒髪を撫でたソフィアは、

「そう、す……る」

 頑張ると意気込むエレナを見て、パチンと手を叩くと、

「せっかくなので、お休みの間に一つ課題を出しましょうか?」

 エレナの耳元で課題を囁く。

「そ……れ、は////」

「できたら訓練再開という事で」

 ソフィアは顔を赤らめ戸惑いの表情を浮かべるエレナを見ながらにやにや笑い、部屋から送り出した。

 普通食が食べられるようになり体力も回復したエレナは、城内ならば自由に歩き回れる許可が降りた。
 どの部屋でも好きに入って構わないとルヴァルから許可をもらったエレナが大抵いるのは、ピアノのある部屋だ。
 ピアノの前に座ったエレナはそっと指を置き、優しく音を奏で始める。

(今日も狂いなくバッチリね。さすがノクスだわ)

 ふふっと嬉しそうに笑ったエレナはピアノの音に聴き惚れながら、リーファが連れてきた一人の錬金術師と出会った日の事を思い出す。

(歌いたいな)

 美しく響くその音を聞いているとどうしようもなく自分の中に欲が湧く。
 歌いたい、と。
 魔力を歌に込める事はできないけれど、その衝動に突き動かされるようにエレナは歌を口ずさむ。
 カナリアとしての衣装を纏うこともなければ、カナリアとしての役目を果たす義務もない自由な歌。
 聞いてくれる人がいなくても、それは心躍る時間だった。

 ルヴァルが城を空けている間、エレナはバーレーについて知りたいと管理を任されている家令のハーマンの許可を得て書庫に出入りしていた。
 そこで見つけた古い楽譜。音楽を嗜む人でもいたのかとリーファに尋ねたが、彼女は知らないという。
 2人で悩んでいたところにハーマンが懐かしそうに先先代の辺境伯夫人つまりルヴァルの祖母がピアノを趣味としていた事を話してくれた。
 とはいえ彼女は自身が開くサロンにピアニストを招く程度で、彼女がいなくなってからはこんな辺境地まで音楽を奏でに来るものはおらず、ピアノもずっと放置されたままなのだという。
 ピアノと聞いた瞬間、エレナの瞳が期待に満ちた色を帯びる。普段何も欲しがらない彼女にしては珍しいとハーマンとリーファは視線だけで頷き合うとすぐさまピアノの元にエレナを案内した。

 管理されていないピアノの音は想像以上に狂っていた。だが、この城には調律師はいない。

「錬金術師なら別棟に沢山いるんですけどねぇ」

 音の違いが分からないリーファは、首を振ったエレナを残念そうに見てそう話す。
 錬金術師と聞いたエレナは考え込む。
 錬金術師とは魔力を用いて引いた設計図に基づきあらゆる物質を用いて様々な物を錬成できる術者だと聞き齧った事がある。

『正しい音さえ分かれば錬金術師の方ってピアノを調律できたりするのかしら?』

「んーどうでしょう? 普段オーダーメイドで武器とか足とか腕とか作ってる人達ですし」

 足と腕というワードに反応したエレナは思わずリーファの左足に視線をやる。

「……気づいていたんですか? 自分ではあまり違和感なく歩いているつもりだったんですけど」

 エレナの視線を受けたリーファは驚いたように目を見開く。

『金属の擦れる音が聞こえてたから』

「……これが、聞こえるんですか?」

 リーファが身につけているのは錬金術師が錬成した特別製の義足。市場に出回っているものとは違い、慣れてしまった今では義足である事を忘れそうなほど違和感もなく動け、金属音など自分の耳では拾った事もない。

『私、耳は結構いい方だと思うの』

 エレナはこくりと頷くとスケッチブックにそう記す。

「もしかして、お館様がお部屋に来られる前にお茶の準備を指示されるのはお館様の足音が聞こえるから、ですか?」

 あり得ない、と思いながらそうとしか考えられないリーファは自分の中にずっとあった疑問を尋ねる。
 城内の部屋はほとんど防音仕様でできている。その上普段から気配や足音を消す訓練をしているルヴァルの足音をお茶の準備ができるほど遠い距離で聞きわけるなど、常人には絶対できない。
 だが、エレナは当たり前のようにコクリと頷く。
 その答えを受けてリーファは紅玉の瞳を瞬かせ、黙り込む。

『……リーファ。この事は誰にも口外するな。リオレートにも、だ』

 そう自分に念押しした時のルヴァルの射抜くような厳しい視線を思い出す。あの時にはもう、おそらくルヴァルはエレナの特異性を見抜いていたのだろう。
 そしてその後の"実験"でルヴァルはエレナの特性を把握したのだ。
 誰にも口外するな、の意味を考えてリーファは内心でため息を漏らす。
 厄介事を拾ってくるのが得意な我が主は、その腹の内に今度は一体何を抱え込んでいるのだろうか、と。

『言いたくないのかと思って。嫌な事を思い出させてしまったのならごめんなさい』

 黙ってしまったリーファにエレナはそう文字を綴る。
 リーファだけではない。
 この城内には手足が欠損し、義手や義足を着けている者が何人もいる事には気づいていた。
 何かを失うのは辛い。その過去の出来事も含めて。
 視線を落とすエレナに、

「……名誉の負傷です。今だって本当は前線に出られるくらい、私これでもかなり強いのですよ?」

 リーファは考え事を振り払い、そう言って胸を張る。

「それに私、現在の職務にも満足しておりますので」

 何せこんな可愛い方のお世話係兼護衛、三食おやつ付きとウィンクするリーファを見て、目を瞬かせたエレナは釣られるようにクスリと小さく笑う。

「エレナ様、その顔採用です!!」

 ぐっと親指を立てて満面の笑みを浮かべるリーファは、

「あー可愛い。エレナ様、やっぱり笑った方が素敵です」

 いっぱい楽しい事して、沢山笑いましょうねと言ったリーファにエレナは応えるように頷いた。
 そういったリーファは心の内で誓う。
 例えエレナが少し"特殊な存在"であったとしても、自分の職務は変わらない。
 ただ、剣として彼女を守るだけだ。それが行き場を失くした自分を拾ってくれたルヴァルの信頼に応える唯一の方法なのだから。
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