その執着は、花をも酔わす 〜別れた御曹司に迫られて〜
二十二時三十分。

私、どうして〝イエス〟って言わなかったの?

「次、菊福(きくふく)のにごり、お願いします」
目の前のガラス戸の向こうから覗く女性に、私は空いた小さなグラスと次の一杯のための五百円玉を渡す。
さっきまで下ろしていたセミロングの髪は一つに結んだ。

小さな古民家を改築した、この隠れ家みたいな立ち飲み屋『ツワモノ()』は最近のお気に入り。
四畳半程度の店の中には、何人かで話しながら飲めるような細長くて背の高いカウンターテーブルと、一人でときどきマスターと会話をしながら飲めるような低くて小さなカウンターがある。
この低いカウンターの向こうはガラスで仕切られた小さなキッチン……というより台所のカウンターになっていて、そこにはマスターと彼女のこだわりの日本酒の一升瓶がずらりと並んでいる。
そう、マスターは女性で、Tシャツに法被を着ている。私と同じくらいの年齢かな。

「ユキちゃん、今日ペース速くない?」
マスターがお酒を出しながら心配そうな顔をする。雪中だから〝ユキちゃん〟て呼ばれてる。
「今日はサクッと酔いたいの。明日土曜だし、大丈夫」
アルコール飲料メーカー勤務の人間がみんなお酒が好きかっていったら、そんなことはないんだろうけど、私は好き。
一人でもしょっちゅう飲みに行ってる。
「酔いたいって、何かあった?」
「ん? 何もないよ。嫌なこと思い出したから忘れたいだけ」

お酒で忘れられるような簡単なことじゃないけど。
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