私の好きな人には、好きな人がいます

 それは、今日一日、気になる男子の顔を一度も見られなかったことだ。


 そんなこと?と思うかもしれないが、これは恋する乙女にとってはかなり大事なことだった。


 愛華は放課後、音楽室のピアノを借りて練習をしている。


 その息抜きがてらベランダに出た際、グラウンドで彼の姿を見付けた。


 音楽室のベランダからはよくグラウンドが見え、運動部が練習に励んでいた。愛華はその様子をなんとはなしに見ていて、サッカー部や野球部を見、そして最後に目に入ったのが陸上部だった。


 ちょうど陸上部がタイムを測っており、部員達が次々にトラックを走り抜けていく。


 愛華は走るのが得意ではないため、あんなに早く走れたらどれだけ楽しいのだろうかと、ぼーっとその様子を眺めていた。


 そこで目についたのが、一人の男子生徒だった。


 驚く速さでトラックを駆け抜けていく姿に目を奪われ、走り終わってタイムを聞いたのか、嬉しそうに笑うその姿が、愛華の印象に残った。


(走るの、すっごく好きなんだろうなぁ)


 彼の笑顔を見た愛華もまた笑顔になっていた。はっとして口元を引き締める。


(好きなことを全力で楽しむ。素敵だなぁ。私も楽しみながら頑張らなくちゃ!)


 音楽の世界はシビアだが、愛華も将来はこのピアノを生かした仕事をしたいと思っている。ここのところは発表会やコンクールに向けて精度を上げるため、ひたすらに演奏し続けていた。楽しむ、という気持ちを少し疎かにしていたかもしれない。もともとクラシックが好きで始めたピアノだ。もっと好きを大事に楽しまなくては。


 それを思い出させてくれた彼に感謝の念を送りつつ、愛華はピアノの練習に戻った。


 それから毎日放課後の練習の息抜きに、彼の走りを見るのが習慣になった。


 いつ見ても彼は楽しそうに走るし、部員同士で笑い合っている。毎日笑顔だった。


 そのうちに彼のことが気になりだした。学年もクラスも名前も分からない男子生徒。


(何年何組の人なんだろう。名前はなんていうのかな。彼女は、いたりするのかな…)


 陸上部、という以外は何も分からない。廊下で擦れ違ったこともない。


 そんな男子生徒に、愛華は密かに想いを寄せ、好意を抱いていた。


 しかし今日はその大事な時間が取れなかったのだ。


 ピアノ教室で一緒の彼がずっと付きっきりで、全く休憩させてもらえなかったし、愛華が練習を終えて窓の外を見る頃には、陸上部も活動を終えていて、帰宅してしまっているようだった。


 愛華はまたため息をつきたい気持ちをぐっと堪え、定刻よりも少し遅れている電車を待ち続けた。


(なんだか今日は疲れたなぁ。指は怪我するし、水原(みずはら)くんには怒られるし、陸上部の練習は見られないし)


 水原というのが、愛華と同じピアノ教室に通うクラスメイトの男子である。ピアノの腕は相当なものだが、何分口が悪く非常に冷たい。顔はまぁまぁかっこいいというのに、性格のせいで女子は近付くことができないようだった。告白した女子が泣かされた、などという噂も広まっている。そんな水原なので、愛華にも容赦がない。ことピアノに関しては更に厳しいのであった。

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