ダメな大人の見本的な人生

17:美化していましたと言う話

 今を楽しんでいるだけだ。
 自分の楽しいと思う事をやっているだけ。

 何をやっているんだろう、という現実を見て呆れる自分と、それの何がいけないのと開き直っている自分がいる。

 いったいいつから、こんな葛藤が生まれるようになったんだろう。
 少なくともこの子くらいの年の頃には、そんな悩みはなかったのに。

「楽しかったね」

 美来はだんだんと高くなっていく観覧者から外を眺める事をやめて、そう言う衣織を見た。
 衣織はやはり景色になんて目もくれず、真っ直ぐに美来を見ていた。

「……外観なよ」
「景色より美来さん見ている方が楽しいもん」

 さも当然、と言った様子でそういわれることは想定内。

 それに慣れつつあることに若干の恐怖心を覚えないでもないが、今日はダメだ。
 楽しかったし、いいか。という所に収まってしまうから。

 〝年下の可愛い男の子〟
 それ以上でも、以下でもない。
 何となく一緒にいて楽しいから、時間が会う時だけは一緒にいるだけ。

 景色が段々と下に見える。
 頂上付近になれば、遊園地が全て見えた。
 光がぎゅっと集まって見える景色は、思わず笑顔を浮かべるくらい美しい。

 忙しなく日々は過ぎる。
 もうすぐ、今日も終わってしまう。

 誰の視線も気にせずに、こんなにゆっくりと景色を眺めたのは一体いつぶりだろう。

「美来さんは楽しかった?」

 衣織は不安そうにすることもなく、世間話の延長の様ないつも通りの口調で美来にそう問いかけた。

 美来は景色から正面に座る衣織に視線を移した。

「うん、楽しかったよ」
「じゃあ、ご褒美、ちょうだい」
「……うん?」

 よく分からずに聞き返すと、向かいに座っている衣織は両手を広げた。
 衣織の様子がまるで、〝おいで〟と言っているように見えるという事は、気のせいだという事にした。

 だけど、可愛いな。それが一番に出てきた感想。

「……なに?」

 気づかれない様に、不審者を見るように目を細めた。

「こっちに来てくれないかなーって。それか俺がそっちに行ってもいいけど」

 今日一日は確かに楽しかった。しかし、本当に疲れた。
 慣れない事をしたからだ。

 観覧車の中でくらいゆっくりさせてほしい。

「そんなに近くにいたら私の顔、見れないんじゃない?」

 だから、大して回ってもいない頭で、テキトーな言い訳を必死に考えた。
 しかし当然、衣織はまったくもっていつも通りの笑顔を顔に貼り付けている。

「大丈夫。15分分くらいは刻み付けたから」

 全然意味が分からないが、衣織からこれ以上の説明はないらしい。
 次はどんな言葉を並べようかと景色を眺めながら頭を悩ませていた。

「でも、美来さんが本当に嫌なら、ご褒美はいらない」

 その言い方はズルくない? と思いながら、ちらりと衣織に視線を移すと、彼の顔にはやはりいつも通りの笑顔。

 この子のおかげで楽しかったのは事実だしな。

 そう思った美来はため息と一緒に肩の力を抜いて笑顔を作って、衣織の隣に座った。

「やった。美来さんが隣に来た」

 弾むような声色で言う衣織に、美来は再び溜息をつく。

 いちいち憎めない。
 すべてが平均くらいなら、なんて先ほどまで考えていたことすら忘れて、美来はこの状況に満更でもない気持ちになっている。

 衣織は美来を抱き寄せて、首元に顔を埋めた。

 不思議なことに、それだけで心が満たされた様な気になる。

 結婚したいというのは、こういう感覚なのかもしれないと思った。

 ずっと一緒にいたいとか、好きで好きでたまらない。という温かい感情ばかりではなくて。

 どちらかと言えば冷たい、人生の孤独や虚しさ。それを安心感で埋める為に人は結婚するのではないか。
 そんな哲学的なことを考えていた。

 衣織の顔が少し離れて至近距離で目が合う。
 それだけで心臓が鳴るのだから、この子は女をとめかせる事に関して天才的なのだと思う。

「だめ?」

 恋愛初心者でさえ間違えようのない、この雰囲気。

 キスなんて可愛く思えるくらいの事やったじゃん。そう思いながらも、衣織はあくまで同意を取った上でしかするつもりがないらしく、美来の返答を待っていた。

 年下に望みすぎかもしれない。だけど、リードしてくれてもいいんじゃないの。
 いや、リードってなんだ。

 わざわざ同意の一言を言わせようとする。
 〝年下の可愛い男の子〟は、一体どこに行ってしまったのだろう。

「むすっとしてる顔も可愛い」

 また顔かよ。
 そう思いながら、美来はため息をついた。

「……いいよ」

 小さい声で呟く。
 きっと衣織は、ずっとその一言をお預けを食らった犬の様に待っていたのだと思う。

 美来の言葉を聞き終えてすぐ、衣織は美来に唇を重ねた。
 重ねる、なんて言葉が可愛らしく聞こえるくらい、荒々しく。

 この歳になって、本当に何をやっているんだろう。
 そう思う疑問の上から無理矢理、苦しさとか、満足感とか、そんなもので蓋をされる。

 本当に何をやっているんだろう。
 そう思いながらも、美来は衣織の背に手を回して、息苦しさを紛らわせた。

 たったこれだけの行為に、打ち付けるみたいに心臓が鳴っているのはいつ以来だろう。
 唇が離れると、衣織はいつもよりずっと大人びた表情で笑った。

「美来さん、可愛い」

 そんな事を言われると、また胸が鳴るから勘弁してほしい。

 楽しかったし、まあ、いいか。
 自分がこれほど短絡的で考えなしだなんて知らなかった。
 だけど、本当に楽しかったんだから。その狭間をずっと、行ったり来たりしている。

 観覧車を降りた二人は、人がまばらになった遊園地の中を歩いた。
 解けたはずの魔法に、またかかっている事には気が付いていた。

 他愛ない話をしながら帰路につく。
 それさえも楽しいと思える。知らない世界を見せてくれるのは、何も年上ばかりではないのだと、美来はしみじみとそんなことを考えていた。

「じゃあまたね、美来さん」
「うん、また」

 美来は手を振る衣織をアパートの前で見送った。

 部屋の中に入っても、しばらく余韻に浸っていた。
 今日は本当に楽しかった。
 心の底から笑ったのも、心の底から叫んだのも、最後がいつだったのかもう思い出せない。

 若いころは当たり前にしていたことが、だんだん当たり前ではなくなっていた。
 老けるというのは、本来楽しい事を心の底から楽しめなくなる事なのかもしれない。

 今日はシャワーで済まそうと思い、とりあえず財布を仕事用のバッグに移した。
 シャワーの前に、とりあえずトイレ。
 そう思ってトイレに入って思い出した。

「……トイレットペーパーだ」

 美来は最近一番のため息をはいて、他の手段はないかといろいろ考えたが浮かぶはずもない。

 自分自身に呆れた後、もう一度、意図的に溜息をついてしぶしぶ今仕事用のバッグに入れたばかりの財布を手に取った。

 近くのコンビニまで往復で約20分。
 言って帰ってくるだけの時間があれば、さっさとシャワーを浴びていい気分になれていたのに。

 どうしてこうツイていないんだろうと考えている間に、コンビニに到着するくらいの反省密度。

 他の場所には目もくれず、トイレットペーパーを手に取ってレジに並ぶ。
 そしてすぐにコンビニの外に出た。

 コンビニのすぐ前の道に、衣織がいた。
 まだこんなところにいたんだ、と思ったのもつかの間、その後ろには美来と同じ年齢かすこし上くらいの、スーツを着た女性が小走りでかける。

 そして衣織の腕に自分の腕を絡めていた。

 衣織は抵抗することもなく、かといって隣を見る事もなく先を歩く。

 思わずトイレットペーパーを落としそうになって、我に返った。
 二人の姿が見えなくなって、冷静になろうと家までの道を歩いた。

 もしかすると見間違いだったのかもしれないと思ったが、しかし先ほど別れたばかりの衣織の服装を忘れるはずがない。
 あれは間違いなく衣織だった。だとしたら……そこまで考えて、美来はため息をついた。

 必死に自分に都合のいい言い訳を探していることに気付いたから。

 冷静に考えてみれば、そういう子じゃないか。

 彼女がいても平気で合コンを設置して、参加して、セックスできる。
 援助してくれるお姉さんがいて、それに対して何も思わない。
 子どもみたいに、欲しいものがあれば我慢できずにほしいという子。

 わかっていたはずだ。
 わかっていたけど、普通、自分から誘ったデートの後で会う?

 誰のせいでもない、自分のせいだ。
 勝手に期待して、勝手に裏切られた気になった。

 というか、期待しているというのがおかしな話だったのだ。
 恋愛対象でもない、10以上も年下の男の子に。

 勝手に美化していただけ。美化していただけならまだ救いがあるが、もしかすると〝自分は特別〟だと高を括っていたのかもしれない。

 だとしたら本当に、目も当てられない程、惨めで。

 しかし同時にこの感情が〝嫉妬〟という感情であることも知っていた。
 ではどうして嫉妬する必要があるのか、については分からないし、分かりたくもない。

 自分には何一つ関係のない事だ。
 衣織という一人の男の子を面白いと思って関わっているのなら、何一つ自分に関係がないはず。

 衣織はどんな気持ちで遊園地でデートをした後に、他の女に会うのだろう。
 その気持ちはモテる人生を送っていると自負している美来にさえ、分かりそうにない。
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