龍帝陛下の身代わり花嫁

…お見合いの場にて


 どこからか鈴の音が響く。
 その音に背筋を正せば、月明かりに透ける布の向こうに廊下を渡ってくる人影が見えた。
 鈴の音は龍帝陛下の訪れを知らせる音だと教えてくれたセジュンさんは、部屋の奥に控えている。
 緊張に生唾を呑みこむと、月夜の闇に目を凝らした。
 布越しに見える人影は三つ。
 ゆっくりと廊下を進むそれらの姿は、提灯のような形の明かりを持っている二人が背の高い人影に付き従っているように見えた。
 そういえば、先程『龍帝陛下』は神に等しい存在だと聞いたばかりだった。

 ――見た目は人間と同じなのかしら。

 緊張からふとそんなことを考えていれば、夜風が仕切り布を揺らした拍子に、ひらりと白いものが舞い込んでくる。
 それは、桜によく似た白い花弁だった。

 ――やっぱり私、夢でも見ているのかも。

 夜桜を見上げたまま、うっかり帰り道で眠ってしまっているのかもしれない。
 布を揺らした風が頬を撫でる。
 気付けば遠くに見えていた三つの人影は、部屋の前に並び立っていた。
 明かりを持つ両脇の二人が布を開けば、その中央に一人の人物が姿を現す。
 満月を背にして立つその姿は、青みがかった黒髪にゆったりとした和装のような服を身につけた青年。
 年の頃は二十代半ばくらいだろうか。
 白い肌に涼しげな目元と整った顔立ちだが、黄金色に輝くその瞳は、彼が人ならざる存在であることを示しているようだった。

 ――この人が、龍帝陛下。

 その黒髪が夜風に舞う光景に目を奪われながらも、深く息を吸って心を落ち着ける。
 今の私はヨナ姫が持参したという紅国の衣装に身を包んでいるし、ヴェールのような薄布で顔も隠れている。
 そう簡単には入れ替わりに気付かれないはずだ。

「……なるほどな」

 突然聞こえた柔和な声と共に、龍帝陛下はその目を細める。

「皆の者、下がるがいい」

 その声に、周囲に緊張が走ったのがわかった。

「この者と二人で話がある。私が呼ぶまで部屋に近付かぬように」

 彼の言葉に付き従っていた二人は、一礼すると廊下を後にする。
 その姿が遠ざかった後、彼の視線は部屋の奥へと向けられた。
 そこには平伏したままのセジュンさんの姿がある。

「そこの紅国の者も退室せよ」
「……私は」
「退出せよ。三度言わせるな」

 その言葉にセジュンさんはこちらにちらりと視線を送ると、小さく会釈をして退室していった。
 二人きりになった空間で、龍帝陛下はその足を一歩踏み出す。
 衣擦れの音と共に真っ直ぐこちらに向かってくる気配に、緊張から顔を上げられないでいれば、不意に視界が陰った。
 向かいに腰を下ろしたらしい龍帝陛下は、ゆっくりと口を開く。

「そなた、紅国の姫ではないだろう?」

 その言葉に、さっと全身の血の気が引いた。
 まさか、どうして、そんな疑問の声ばかりが頭の中を埋め尽くし、何の言葉も出てこない。

『ハルカ様は、ただ首を横に振るだけで構いません』

 咄嗟にセジュンさんの言葉を思い出し、慌てて首を振ろうと顔上げた瞬間、ふわりと風が頬に当たる。
 目の前には、こちらを覗き込む黄金色の双眸。
 顔にかかっていたヴェールを上げた龍帝陛下は、その目を三日月のように細めて柔らかな笑みを浮かべた。

「そなたの名は?」

 その問いかけにどう答えたらいいのかわからず、ただただ首を横に振る。
 首を振る以外の行動をとっていいのかわからず困惑していれば、不意に相手の手が私の髪に触れた。

「なるほど。彼らに肩入れしているのだな」

 まるで全てを見透かしているかのようなその言葉に、目を瞠ることしかできない。

「そなた『時空の迷い子』だろう?」
「『時空の迷い子』……?」

 聞きなれない単語を思わず繰り返せば、向かいの相手はふっとその表情を緩めた。

「この世界ではない別の世界――異世界から迷い込んだ存在のことだ」
「私は――」

 自分の状況に当てはまる彼の言葉に、開きそうになった口を慌てて塞ぐ。
 私が己の状況を説明することで、ユナ姫を逃がそうとしているセジュンさんの邪魔をしてしまうわけにはいかない。

「どうした、何を躊躇している?」

 その問いかけに慌てて首を横に振れば、向かいの彼はきょとんと目を丸くすると、ふっとその口端を吊り上げた。

「……それでは、ここからは私の独り言だ。少し前にこの邸から二匹の鼠が逃げ出したらしい」

 その言葉に、思わずびくりと肩が跳ねる。
 彼の口にした『鼠』は、恐らくユナ姫とソジュンさんのことだろう。

「鼠達は土地勘もない場所ゆえに、日の出を待ってから先に進もうと、まだそう遠くない場所で身を潜めている」

 なぜ彼等の居場所を知っているのかと顔を上げれば、こちらを見つめていた相手がにこやかな笑みを浮かべる。

「そなたが口を割らぬというならば、奴らを捕らえて事情を聞くしかあるまいな」
「や、やめてください!」

 反射的に声を上げれば、向かいの青年は楽しげにこちらを覗き込んだ。

「おや、ようやく話す気になったか?」

 私が説明しなくとも、彼はほぼほぼこの状況を把握しているのだろう。
 なぜこんな回りくどいことをと思いながらも、時間を稼ぐという役目を負っている以上、ヨナ姫達の元にこのまま追っ手を向かわせるわけにはいかない。

「そなたがなぜこの場にいるのか、まずは事情を聞かせてもらおう」

 その言葉に観念したように座り直すと、おずおずと口を開いた。

「実は――」
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