キミのいない世界

 経過を診ることになり、セカイの入院が続くと決まってから数日。連日、叶弥はマンションの住人を連れて見舞いに来ていた。どの顔も見覚えはなく、名前を聞いても記憶を思い出す引き金にはならない。それよりもマンションに食堂があり、その調理を担当している人が居ることや、事情があって一人であるいは姉妹で暮らす未成年、二十歳を越えていない十代が数人暮らしていることのほうが驚きだった。とはいえ、セカイ自身も十九で、それ以前からマンションではひとり暮らし同然だったというのだから、養父が建てたそのマンションは事情のある子どもや家庭の受け皿になるように体制が整っているのだろう。その養父も放浪癖が酷いらしく、セカイが入院してから一度も会いに来たことはないらしい。そんなことを聞いても、セカイは不思議と養父に嫌悪は湧かなかった。興味がないわけではないし、記憶がないせいもあるかもしれないが、それが自然なような気がして納得している。

「どうだセカイ? 思い出したか?」

「ごめんなさい。何も思い出せなくて……」

 叶弥に促されても頭の中はモヤばかりで記憶がない。誰もセカイが思い出せないことを責めることはないが、落胆や悲しみが見え隠れすることが申し訳なくなる。馴染みのある人と言われる人たちに会えば会うほど息苦しさを覚えた。
 それでも夜になり、叶弥も住人たちも居なくなって面会時間も過ぎた頃になると夜音が会いに来る。それが少しだけ彼女の呼吸を整えた。

「やぁ、セカイ。具合はどう?」

「いつもと、変わらないです」

 ベッドの横の椅子に座り、長い脚を組んで微笑む夜音。記憶について尋ねることもなく、その日あったことや感じたことを話すこともあれば、何も言わずにただ傍に居て眠るまで手を握っていることもある。
 面会時間を過ぎているにも関わらず、無制限に彼だけがセカイの傍に居ることが許されていることについて訊くと、この病院自体が夜音の家である神守が経営しているためだということだった。更に彼の計らいでセカイの担当をしているのは夜音の姉だという。通りで目元が似た美人な女医だと思ったと、セカイは話を聞いて思った。家族経営の大病院だが、その姉がコネなどで勤めているわけではないことは患者の多さと、方々から聞く手腕の良さの評判からも分かるから不安はなかった。
 肝心の夜音の職業について、彼は「小説家」と答えた。それ以上は笑顔ではぐらかされて詳しくは知らない。金銭に困った様子はなく、セカイの担当を姉にすることと面会時間に縛られない以外に家族を頼っているようにも見えない。時々、一目で高価だと分かる店の紙袋を持って現れ、ブランドらしき季節の果物を差し入れてくれる。普段着ているシャツやスタイリッシュベストも、履いているズボンや靴も、痩身と長身を際立たせる黒いトレンチコートも素人目でも質が良く上質なものと分かる。拘りかそれとも頓着していないだけなのか分からないが、性別を感じさせない身のこなしや言動にも貴人特有の上品さと威厳が織り交ざっていて、それでいて物腰が柔らかく、その余裕が彼を経済的にも精神的にも自立した人物に思わせた。

「やの……神守、さん」

「名前でいいのに」

「まだ慣れなくて……。それに何だか、今の私がそう呼ぶのは失礼な気がするから」

 夜音は目を細めて微笑むだけでそれ以上は何も言わない。セカイも彼の名前を呼ぼうとすると胸につかえるものがあり、例えそれ以上を乞われたとしても応えることは出来ないからそれがありがたいと同時に、鼻の奥を熱が通るさみしさを覚えた。

「それで、私に何か言いたいことがあったのかな?」

「ずっと、気になってて。指輪、どうして二つもあるのかなって」

 セカイは凝視しないように適度に視線を外しながら夜音の胸元に輝く二つの指輪を見ていた。彼の首から下げられたそれは紐状のチェーンに通されているだけで、首飾りのための指輪ではないことが分かる。そしてそれが大きさ違いの二つであり、ペアリングであることも見て取れた。夜音はチェーンをつまんで指輪を見せながら笑った。

「これのことかい?」

 どちらもプラチナで、真ん中に小さなダイヤモンドがシンプルながらも洗練されたデザインで施されていた。病室のライトでもダイヤモンドの輝きは眩しく、反射で青みのある色を見せる。

「きれい……」

「近くで見てみる?」

 セカイが答える前に夜音は首からチェーンを外すと彼女の手を掴み、その手の上に指輪をのせた。

「素手で触れたら汚れてしまいますよ?」

「元々着けていたものだから、今更だよ」

 息を吐くように笑って言うその姿が少しだけさみしそうに見えた気がした。セカイはつき返すことも出来ず、仕方なく手の上の指輪を見る。少し使用感があるが手入れが行き届いていることが分かる。首飾りにして肌身離さずにいることから相当大事にしているのだろう。大きさ違いのペアリングが結婚指輪だと気付くのも時間はかからなかった。どちらも細めの指にぴったり合いそうな大きさだ。片方に比べて小さめの指輪の内側には「Yanon」と刻印されていると気付く。そして大きめの指輪の内側を恐る恐る覗き込む。

「……サユ?」

 ローマ字で「Sayu」と刻まれているのを見た後、セカイの手からそっと指輪は取り上げられた。そのまま夜音の首にかけ直される。

「あの、夜音さんは」

「うん。結婚、していたよ」

 訊かれる前に、夜音がわずかに言い淀んだ。掘り返されることを拒んでいるような空気はないが、答えずらそうだ。

「……サユ、さんはどうしたのか……聞いてもいい、ですか?」

 知りたかった。目の前のいつも笑顔で隠してしまう、さみしそうなこの人のことを知りたくて仕方がなかった。好奇心なのか、別の何かなのかは分からないが彼を知らないといけない気がした。夜音を愛し、彼に愛された人がどんな人なのか知りたかった。

「……指輪を置いて、家出をしてそれっきり。私の注意が足りなかった。随分と苦しい思いをさせた。このまま彼女が幸せになるなら、それが幸せならと思っているよ」

 今にも泣きそうな顔で笑う夜音を見ると苦しかった。そんな顔をさせるサユという人が許せなくなりそうだ。しかし同時に、そんなことはないと根拠もなく思ってしまう。

「そんなこと絶対ないです。きっとサユさん、後悔してます。神守さんを置いて行ったこと、絶対に。だってこんなにも、こんなにも想ってくれる人が居るのに、そんな人を置いて行った人がこれ以上幸せになんてなれるわけないから。もしも、どうしても置いて行かないといけないことがあったなら、それは神守さんのせいじゃない。あなたのせいであっていいはずがないです」

 きっと苦しく痛むはずなのに、ひとりの愛した人の幸せを一途に願っている夜音の笑みが優しくて、セカイの頬を濡れた熱が伝う。目の奥が熱く、零れるそれを止められそうになかった。夜音の手がそっと彼女の涙を拭う。余計に涙は止まらずに流れた。夜音は立ち上がると、セカイを抱きしめた。

「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」

「君が謝ることじゃないだろう?」

「あなたのほうが苦しいはずなのに、悲しいはずなのに……」

「……セカイはずっと優しいね。君も記憶がない不安があるはずなのに、私のために泣いてくれて」

「だって」

 きっと知っているはずなのに夜音のことを忘れてしまった。彼は全部知っている上で接してくれているのに、セカイは何も知らずにいる。彼は何も知らなくてもいいようにしてくれている。そのやさしさに報いる方法がない。悔しかった。情けなかった。彼のことが愛おしかった。セカイはいつの間にか夜音を愛していた。
 しばらくして泣き止んだ頃、セカイは泣き疲れて眠った。彼はそっと彼女をベッドに寝かせて頬を撫でた。

「おやすみ。また明日」

 夜音はセカイの首に少し強く吸い付き、淡い色の痕を残して離れる。

「今度は間違えないよ。……ねえ、サユ」

 病室を出る直前、夜音は指輪を撫でて口付ける。その目はやはり、底の見えない色をしていた。



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