キミのいない世界

6

 あれから何度か目が覚めてしまい、セカイは十分な睡眠が取れずにいた。それまで問題なく朝に目を覚ましてから夜の消灯時間まで規則正しく過ごせていたというのに、体が寝不足の分を昼寝で補おうとし、それが結果的に夜の寝付きに影響する。睡眠に関する奇病から入院していたセカイは当然、検査のために退院が延びた。だが検査の結果に異常はなく、彼女も過眠になるわけでもないため、またしばらく様子を見ることに決まった。

 夕暮れが遠ざかり空を暗く染める頃、いつものように夜音が会いにやって来る。彼を見る度に、彼の声を聞く度にふたりだけの何かを求めてしまうのに、聞こえた会話と呟いていた言葉を思い出す。夜音の心にセカイは入り込むことも出来ないのだと思い知る。最近は、彼との会話も上の空で頭に入って来なかった。

「セカイ、聞こえる?」

「……え? あ、ごめんなさい、ぼーっとしていて」

 そう答えると、夜音の手がセカイの額に触れた。伝わる体温がじんわりと広がり、まるで愛されて特別大事に扱われているように錯覚してしまう。

「熱はないみたいだ。具合が悪いなら誰か呼ぼうか?」

「いいえ……大丈夫です」

「そう。……何かあったの?」

 あなたが私を悩ませるから、など言える訳もなくセカイは口をつぐんで俯く。そもそも愛している相手が居るなら思わせぶりなことをしないでほしいと不満が募る。それでも、もう来ないでほしいとも言えないほどには彼に会いたいと思うのだ。

「少し、疲れてしまいました。今日はもう休みます」

「……分かった。また来るよ。ゆっくり休んで。おやすみ、セカイ」

 惜しむような手つきでセカイの髪を撫でてから、夜音は退室した。セカイはその背を見送ることも出来ず、扉が閉まるとベッドの上で膝を抱えてうずくまる。夜音のことが分からない。それがひどく心をかき乱す。
 そのうち、セカイはまたすぐに覚めてしまう眠りに逃げ込んだ。


 翌日。朝を迎えたという実感もなく、日付上は新しい日なだけの今日は、セカイにとっては昨日の続きのままだった。目を開けて体を起こしてから、頭の中では夜音のこと、サユのこと、自分のことを繰り返し考えている。だが、記憶がなく確信を得られるだけのものもない彼女は、同じ考えから抜け出すことが出来ない。沈んでいく気持ちの中、病室の扉がノックされ、看護師が入って来た。

「セカイさん、面会の方がいらっしゃってます」

「どなたですか?」

「天野春乃さんという方です」

 天野春乃(あまのはるの)。セカイが住んでいるというマンションの住人で、マンション内にある食堂で調理を担当しているという。セカイが目が覚めたと聞いて、真っ先に見舞いに来たのを覚えている。上品で女性らしい着物のよく似合う髪の長い綺麗な人だと思ったが、声を聞いて男性だと知ったときは驚きよりも先になぜだか笑ってしまった。そんなセカイを見て、春乃が泣き笑いの顔をしながら「そこら辺の子よりかわいいでしょ」と言って差し入れにお弁当をくれたことも、そのお弁当が感動するほど美味しかったこともよく覚えている。

「……ありがとうございます。通してください」

 セカイがそう伝えると、看護師は扉を閉めて去って行った。それから十分後にまたノックが聞こえ、「どうぞ」と声をかけると扉が開く。

「セカイちゃん! 元気ー?」

 変わらず女性物の着物を着こなし、前髪をカチューシャで留めて薄く化粧をした春乃が入って来た。セカイは安堵で頬が緩む。

「こんにちは、天野……さん」

「春乃でいいって。僕とセカイちゃんは兄妹みたいなものなんだから!」

 春乃は二十代の前半に見えるが、セカイが十歳の頃から知っているようだった。春乃の家は有名な料亭を代々経営しているらしく、他にも食に関する店や事業を拡げてきたようだ。しかし、次男で末っ子だった春乃の料理の腕が家族の期待に沿わなかったことや、自身の容姿の良さを自覚してから始めた趣味の女装が理解されなかったことで居場所がなく、中学生で一人マンションに住むことになったと教えてくれた。

「今日はねー病院に許可もらって、またお弁当持って来たよ! うれしいでしょー?」

「ありがとうございます。また食べたかったから」

 春乃の明るさと嫌味を感じさせない物言いにセカイの力が抜けて笑う。それに春乃は目を潤ませるが、笑顔を見せて彼女のベッドテーブルにお弁当箱を置く。

「ほら、お昼まだでしょ? 僕のお弁当食べて、元気になって退院したら、また一緒に遊ぼう。それにほら、僕のご飯っておいしいから、おいしさのあまり思い出すこともあるかも知れないし!」

 あまり食欲がないことは隠してセカイは頷く。春乃のお弁当の蓋を開け、中身を覗いた。バランスよく配置されたおかずに、栄養満点だと分かる彩り、一つ一つが豪華に思える大きさ、冷めても漂う匂いにセカイも思わず「おいしそう」と呟く。

「よかったー。セカイちゃん、あんまり食欲がないって聞いてたから、病院のご飯に飽きちゃったのかな、具合が悪いのかなって心配だったんだよ?」

「聞いていたって、誰に……?」

「もちろん、夜音さんだよ!」

 その名前が出た瞬間、春乃を見ていたセカイの目が据わった。沈むような雰囲気を感じて春乃は後悔を覚える。

「あ、あの、もしかして夜音さんと何かあった?」

「……いえ、何でもないです」

「分かるよ、何かあった人は何でもないって言うんだよね」

「む……」

 図星を指されてセカイは無意識に頬を膨らませた。その顔に春乃は思わず吹き出す。

「かわいい顔が台無しだよ〜。ほらほら、お兄さんに話してみなー?」

「……その、気になることがあって」

 セカイは夜音について知り合いという関係にしては距離が近いこと、それに翻弄されてしまうこと、けれど彼の中には別の女性への変わらない愛があること、なのに時々注がれる視線が疑いようもなく熱いことを吐露した。サユの代わりにされているかも知れないことや、彼に好意を抱いていることは黙っておく。

「私はどうしたらいいのか分からなくて。ずっと考えているんです。けど、今の私には神守さんをこうだって判断出来るだけのものが何もなくて……。ただ、あの人の中にはずっとひとりの女性が居ることしか分かりません」

「そっ、かぁ……そうだよねー……」

 歯切れ悪く、春乃は少しばかり視線を泳がせる。流石に春乃にも気まずい話題だったのかも知れないと思い、セカイは笑った。

「全部ただの勘違いかも知れません。変な話をしてごめんなさい。ご飯、いただきます」

 そう言って、箸を進めた。玉子焼きを一切れ口にすると出汁の香りと卵の濃厚さ、ほんのりとした甘さが広がり目を輝かせる。

「おいしい」

「あ、それセカイちゃんが昔から好物なんだよね! 今も変わらないみたいでよかった」

「春乃さんのご飯、ずっと食べたいです」

「え」

 目を見開いて止まる春乃にセカイは首を傾げた。それからじわりと春乃の目が潤み、ついに泣き出してしまった。

「あ、あの、私、嫌なこと言ってしまって」

「違う」

 着物の袖が汚れるのも構わず、春乃は涙を拭う。それから優しく微笑むと、セカイの頭を撫でた。

「セカイちゃんと初めて会った時に言ってくれたこと、また言ってくれるんだなーって嬉しくなっちゃって。あぁ、セカイちゃんはちゃんとセカイちゃんなんだなぁって」

「どういう……?」

「僕さ、記憶喪失のことちょっと教えてもらったんだ、夜音さんに。あの人、知識いっぱいあるから。精神的なストレスとかでなる人もいるんだってね。セカイちゃんはその……多分、精神的なもので記憶がないんだと思う。それで、記憶を失くした人は人格が丸っきり変わったり好みが変わったり、別人として生きることもあるんだって。記憶が戻らない人も少なくないんだって。だから、セカイちゃんがもし、そうだったらどうしようってずっと怖かったんだ。けど、名前はセカイのままだし、さっきみたいに同じ言葉をかけられるとね、きっと全部忘れられたわけじゃないんだって、思い出せないだけかも知れないって思ったら、何だか安心しちゃった」

 思い出せないだけ。それは少しだけセカイの心を重くさせる。例え思い出したとして、夜音の心に居る人は変わらないのにと思ってしまう。思い出したら、今の関係だって失くしてしまうかもしれない。自分の記憶が戻ってほしいものなのかも、今のセカイには分からなかった。
 春乃はセカイから手を離し、鞄のように結んでいる風呂敷の中を探ったと思うと一冊の本を取り出す。

「これ、僕からもう一つ差し入れ。ずっと病室に居るのも退屈でしょ? セカイちゃんが好きかもって思って本屋で見つけたんだよ。セカイちゃん、記憶失くす前は読書が好きだったから」

 セカイは恐る恐る本を受け取る。ユリとカラーとレースフラワーのブーケが表紙になった文庫で、作者は「氷室都月(ひむろみづき)」とある。帯には大賞受賞の文字があり、どうやら人気の作家らしいと分かった。

「色々、ありがとうございます」

「いいのいいの! 僕さ、本当にセカイちゃんのこと妹みたいに思ってて大好きだよ。夜音さんのことも、あの人はすごくミステリアスで何考えてるのか説明されても正直全部は分からないけど、すごく好き。だからふたりの仲が拗れたりしないといいなって思う」

「春乃さん……神守さんが好きなの?」

「え!? あ! 好きって言うのは人間として存在が好きって意味で、全然、変な意味じゃないっていうか、信じて!?」

 慌てる春乃がおもしろくて、セカイは朗らかに笑い出す。どうやら分かっていてからかった様子に、春乃は怒るよりも安堵の気持ちで息をついた。怒っている風に咎めれば、セカイはまた笑い出す。面会時間のギリギリまで、二人は会話を楽しんだ。
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