キミのいない世界

7

 春乃が帰った夕方。セカイは早速、差し入れでもらった本を開く。記憶を失ってから初めて見るその紙の束はなぜだか心躍らせる。その感覚は記憶の有無ではなく染み付いたもののようで、セカイは自分が確かに読書好きだったのだろうと受け入れられた。
 開いて目次を流し読みし、本編に入る。最初の一文でセカイはこの物語の虜になっていた。書かれる情景も表現も、知らないはずの景色を鮮明に思い起こさせる。まるで確かに体験したことがあるような、懐かしいような、だが未知の感覚。五感すべてが言葉の中に記憶されているような錯覚に陥った。物語自体も春乃の見立て通り、彼女の好みだった。内容は孤独だった青年がひとりの美しい天使に出会い、様々な意味の愛を互いに向ける幻想譚だ。孤独だから愛を知らない青年が天使に向けるそれは愛なのか、天使がその答えとなるのか、何より彼らのやり取りや互いへの触れ方の描写が緻密(ちみつ)で美しく、セカイは読み進めるうちに胸が心地よく苦しくなる感覚に浸っていた。
 それとは別に彼女の中にある冷静さが物語で描かれている心情と今の自分のものとを比べたり類似性を見つけたりしながら、心に漂うモヤの正体を探る。どれも似ているが、そのどれもが明確な答えにならないのは、やはりまだ夜音のことを知らなすぎるからなのか。だが同時に、セカイは妙な予感を覚える。この物語の作者は夜音ではないかと思うほど、時々彼に感じる熱や触れ方の感覚をこの青年に垣間見るからだ。もしそうだとすれば、物語の中の青年は恐ろしいほど深い、愛よりも得体の知れない感情を天使に抱いているのは、夜音がそれだけのものを抱えているとも取れるのではないか。
 一気に読んでしまい、セカイは物語の終わりに放心する。体が熱く火照り、鮮明に残る物語のシーンが頭から離れない。没頭するのと同じくしてどこかに客観的な視点の自分を置いて置かなければ戻れなくなるような余韻に脳が痺れていた。
 しばらくして、ようやく我に返ったセカイは本の解説へと目を通す。参考資料や作品のタイトルが四ページに渡って連なり、作者の徹底さを思い知る。そして最後のページでセカイは目を見開いた。

「……最愛の妻……」

 最後のページには謝辞があり、そこには「最愛の妻・幸優(さゆ)へ捧ぐ」と一文があった。それが夜音の居なくなった妻のことであり、作者が彼であることを確信させる。この圧倒的かつ繊細で完成された物語は、たったひとりの女性のために書かれたものなのだ。セカイはその事実と、目の当たりにした夜音の愛の深さに嗚咽する。そしてその相手が自分ではないということに、気が狂いそうなほどかき乱された。それでも彼女は本を抱きしめ、夜音への愛おしさが止まらず、相反する感情の波に揉まれて頭痛に襲われた。

「天使みたいに……」

 天使みたいに愛されたかった。羨ましさが募り、それだけ想われていながら居なくなったサユへ怒りが湧く。だが、もしも夜音の想いの深さへの恐怖で逃げ出したのだとしたら同情する。並みの人では受け入れきれないだろう熱量を知ったセカイは少しだけ、自分ならそれを受け入れられると優越を覚えた。自分がサユだったならと考え、ふと、物語の天使の描写を思い出した。詳細だからこそ想像するのは難しくないその容貌とサユに向けての謝辞から、あれは妻であるサユをモデルにしているのだと気付く。同時に色や雰囲気の表現で差異はあるものの、セカイの容姿にも酷似した特徴があることに思い至った。確か、眠っている間に夜音の指示で髪などが整えられたのではなかったか。
 セカイは肺が重苦しくなるのを感じる。サユの代わりにしようとしていたのではないかと過ぎる。そしてサユは家出ではなく、何らかの理由で失踪しているのではないか。その理由が夜音で、サユは彼によって何らかの形で……。
 そこまで考えて頭を振る。流石にそれはないだろうと信じるが、サユの代わりにしようとしている説はセカイの中の違和感を確かなものにした。幸い、今日はまだ夜音は来ていない。このまま早めの就寝をしてやり過ごそう。そして夜中になったら、病院から遠く離れた場所へ行こうと決めた。彼に何をされても怖くはないが、誰かの代わりになることだけは避けたかった。
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