桜吹雪が綺麗です。
「だめか……」

 彼はそれ以上押してくることもなく、不意に興味を失ったようにシャープペンシルを握りしめて数学の問題と向き合い始めた。
 なんとかやり過ごした。
 寂しいけど、これで良かったのだとホッとしてその日の授業を終えて、玄関を出た直後。
 閉めたはずのドアが勢いよく開いて、唖然として振り返った千花に、追いかけて来た彼は言ったのだ。

「勝利祈願のキス。どこでもいいから」

 余裕をかなぐり捨てた、怒ったような顔を前に、固まってしまう。
 考えた。
 結構長いこと考えた。
 実際には一分程度かもしれないが、体感的にはものすごく考え込んだ。
 結局、断った。

「その……、教え子の必勝祈願くらいは気持ちよくしてあげたいのはやまやまなんだけど……、ファーストキスになってしまうので」

 二十一歳にして、経験がないと白状した上で。
 彼は大きな目を瞬いた後、「……そうなんだ」と毒気を抜かれたように呟いた。

「そうなんです……」

 もはや隠し立てするものもなくなったので、認める。
 すると、彼は顎に手をあてて考えながらぶつぶつと言う。

「それじゃ、握手してとか、そういうのも嫌だよね。男として下心あるのは言っちゃった後だし。う~ん……。そうだな、じゃあここはひとつ先生に呪いをかけておきます」

 なんか変なこと言った。
 いぶかんして見つめた千花に構わず、彼は実に晴れ晴れとした表情で続けた。

「次会うときまで処女でいてください。振られたけど、諦めたわけじゃないんで」

 この、中学生男子の、いかにも思い付きの呪いがどれほど効いてしまったというのか――

 それから八年。
 呪いはいまだに、効力を発揮し続けている。
 誰とも結ばれぬまま、千花は二十九歳の春を迎えていた。
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